五冊のうち、表側に持っていた一冊。
 どうやら、その表紙に踊るキャッチコピーが目に留まったらしい。ユウがそれ以上なにかを口にするよりも前にと、私は慌てて声を張り上げた。

「違う!! べ、別に私、けっ、結婚するわけじゃないよ!!」
『あ、ああ。分かった、落ち着いてくれ……』

 ユウは完全に引いている。ひとりで荒ぶる私を宥めるように、彼は胸の前で控えめに両手を上げた。
 なぜこの手の雑誌が私の部屋にあるのか、その点に関心を示している感じには到底見えない。どちらかといえば、私の焦り具合に引いている印象がある。
 とはいえ、ユウに妙な誤解をしてほしくない。その思いが先走った結果、私はそれらの雑誌の購入理由を、まくし立てる勢いで口にした。

「し、将来の夢なの」
『え?』
「あの、こういう……ウエディングプランナーとか、花嫁さんのドレスのアドバイザーとか。将来は結婚式に関わる仕事がしたくて……と、とにかくそれだけだから!」

 自分から切り出した話を強引に締めくくり、私は震える息を零した。
 こんな雑誌まで買って、と笑われてしまうだろうか。不安が胸を過ぎる。私にはユウの顔が見えない。なにかを伝えたとき、ユウがどんな感想を持っているのか、せいぜい声や仕種から推測するしかできない。人を小馬鹿にする態度を取る相手ではないと分かっていても、意思とは裏腹に不安が膨らむ。
 でも、ユウは笑わなかった。それどころか、先刻までの引いた素振りさえ嘘のように――引いていたのは雑誌の内容云々ではなく私の焦り具合にだったのだろうが――、興味深そうに『へぇ』と声をあげた。

『中身、見せてくれないか』
「は?」
『それ。俺には多分めくれないから』

 一拍置いてから、ユウがなんの話をしているのか思い至った。
 けれど、さっきも疑問に思ったことが再び脳裏を過ぎり、私は訝しげな声をあげてしまう。

「い、いいけど。でもこないだユウ、私のノート、めくってなかった?」
『ノート?』
「あの……変なおじさんから、た、助けてくれたとき……」

 しどろもどろに話しながら、助けてもらったときの詳細を思い出し、私の顔は自然と熱を持ち始める。そんな私とは対照的に、ユウは取り乱す様子を一切見せず、『ああ、あのときは』と切り出した。

『それ以上カナオに近寄るなって思いながら睨んでただけだ』

 平然と言い放たれ、相手の顔が見えないことを喜ぶべきか悲しむべきか、分からなくなった。
 ただでさえ赤くなっているだろう顔が、余計に熱くなる。こればかりは自分の意志ではどうにもできない。言い返そうとしたけれど、口はぱくぱくと開いたり閉じたりするばかりで、なにも言えずじまいだ。
 私がなにをここまで動揺しているのか、毛ほども理解していなそうなユウから露骨に視線を外し、私は意識ごと彼から逸らして考える。

 あのとき、私にはユウが見えていた。でも、あのおじさんが見ていたものが、本当に私に見えているユウと同じだったかどうかまでは知りようがない。おじさんの逃げ方から察するに、よほど恐ろしいモノを見たのだとは思う。
 ユウが恐ろしいモノかと問われると、私には即答できない。親しくなって贔屓目が働いていることは承知の上だが、私は、ユウを怖いとはもう思えなかった。
 だとしても、普通の人間にしてみれば、普段のユウも大概恐ろしい存在に見えるのかもしれない。なにせ顔のない幽霊だ。よく考えたら恐ろしい。かく言う私も、初めて彼に遭遇したときには走って逃げようとしたくらいなのだ。

 思考に耽る私に気づいているのかいないのか、ユウは『うーん』と唸りながら続ける。

『木は、最初は幹にこんな感じで手をついて、強めに揺らした。全然揺れなかったから、途中から体当たりする感じになってたかな』
「あ、やっぱりそうだったんだ」
『ああ。それから、教科書とかノートとか……あんたの手元にあった冊子は、普通にパラパラめくって……あ』

 話の途中で、ユウは今初めて気づいたと言わんばかりの声をあげた。
 前にも似た声を聞いた。あれは確か、漢字で書いた私の名前を読んでいたときだ。あのときも、ユウは無意識にできていたことを改めて認識し、面食らったような声をあげていた。
 過去のユウを思い出しつつ、私は手元の雑誌を指差してみせる。

「でしょ? だからこれもめくれるんじゃないかな」
『そう……か』

 なにかに触れられるという感覚は、今のところ、ユウにはあまり意識されていないみたいだ。私は私で、ユウが実際に目の前の雑誌をめくれるのか興味深くはある。
 おそるおそる、ユウの指が雑誌に向かう。
 白い指がページの端を一枚めくろうと動いて……しかし、指はそこをスッと素通りしてしまった。

「っ、あ……」

 思わず声が出て、私は慌てて口に手を当てた。
 ノートの端を通り抜ける指が、私の手の甲にそっと触れていたあの日の彼の指を連想させ、くらりとした。自分が今どこにいるのか、なにをしているのか、一瞬分からなくなる。

『ああ、やっぱり駄目みたいだ』
「そう……だね。あのときはなんでできたんだろうね」

 私よりも遥かに平然として見えるユウに、呟くように返事をする。
 我ながら、当たり障りのない言い方をしてしまったなと思う。

 以前も不思議に感じた。バスには乗れる、私の家の階段は上れる、ベンチにも座れる――それなのに私には触れられない。結局、今もこの雑誌には触れられなかった。
 それに、今日だって窓の外で待ちぼうけしていたのだ、ユウは。
 窓をすり抜けて入ってくるような真似はしなかった。単にできなかっただけなのかもしれないけれど、ユウにとってなにが可能でなにが不可能なのか、私にはその線引きがよく分からない。

 多分、ユウ自身も分かっていない。
 疑問と困惑は深まっていくばかりだ。

『……分からない。俺はただ、それ以上カナオに近寄るなって思いながら相手を睨んで』
「わ、分かったから。それさっきも聞いた」

 返事を求めていなかった質問に真面目に返され、しかもその内容が最もほじくり返してほしくなかった件だったために、引きかけていた顔の熱が再燃してしまう。
 あからさまに言葉を遮り、私は赤くなった顔を隠した。そしてユウの側に渡っていた雑誌をさっと回収して床に置き、そのうちの一冊をめくり始める。

「これは結婚を控えてるカップル向けの雑誌なんだけど、ほら、いろんな式場の情報が載ってるの。首都圏版だとこの倍の厚さがあるんだよ」
『こ、この倍? そんなものを誰が買うんだ』
「だから結婚を控えてるカップルだってば」

 正面で私の様子を眺めていたユウが、隣に回り込んで熱心に雑誌に頭を向けている。視線の向かう先も正確には分からないのに、今の自分たちの行動が妙にシュールに思え、うっかり笑いそうになる。
 ページをめくる指が、新作のウエディングドレスが紹介されているページを掠めたそのとき、ユウの指が動いた。それまで雑誌から離れていた手が、ドレスをまとうモデルの写真に向かって伸ばされていくさまを見つめ、私は指を止める。

「なに?」
『……いや。なんか、こういうの……見覚えがある気がして』
「え、雑誌のこと? それともウエディングドレスのこと?」
『いや……全体的に。これなんかも』

 ユウが指を差した先には、ドレスをまとったモデルが、チャペルのステンドグラスを背にポーズを取っている写真があった。彼の指が、モデルの女性ではなくチャペル全体を示すように動く。
 それきり、ユウは黙り込んだ。私も押し黙るしかできなくなる。
 こんなとき、顔が見えれば表情が分かるのに、今のユウがなにを考えているのか私には察せない。今日もまた、そのことを心底もどかしく思ってしまう。

 ……ウエディング雑誌を、普通、男の人がひとりで眺めるだろうか。
 もしかしたらユウには恋人がいたのかもしれない。それも、結婚を約束するほどに大切な相手が――そう思った途端、胸がぎりぎりと痛んだ。
 想像さえしなかった。けれど、ユウはどんどん元の姿や記憶を取り戻している最中だ。今の彼は、限りなく大人の男性に近い形をしている。恋人がいたとしても、おかしなことなどひとつもない。

 恋人を残して死んでしまったのなら、あまりにもかわいそうだ。同時に、自分がいかにユウのことをなにも知らないのか、思い知らされた気分でもあった。
 以前も同じことを思った。分かったような顔をしておいて、私は彼についてなにも知らない。

『……カナオ? どうした?』
「っ、う、ううん。なんでもないよ」

 不意に声をかけられ、平静を装って返したはずが、私の声は普段のユウのそれよりも遥かにくぐもっていた。
 口ではなんでもないなどと言いながら、これでは心配してくれと言っているに等しい。心の乱れをごまかすように、顔を上げてユウの側に向き直った……そのときだった。

「……あ」

 ユウの顔に視線を合わせたまま、私は露骨に固まってしまった。頭からシーツを被るユウの、半分布に埋もれた顔の下側に、なにかが――唇が見えたのだ。
 どうした、と再び尋ねてくるユウの口元へ、私は知らず指を伸ばしていた。触れるか触れないかというところまで近づいたとき、ユウが肩を震わせて身を引いた。その仕種を見て、自分がなにをしようとしていたのか、やっと意識が伴った。

「あ、ご、ごめん。その、口、見えたから……」
『……口?』
「う、うん。唇。ええと、その」

 しどろもどろに答えつつ、伸ばしていた指を早々に引っ込める。
 なにをする気だったんだ、私は。触れるつもりだったのか。指を伸ばしたとしても、どのみち触れられやしないのに……それでなくても、異性の口元に直接触れるなんて。
 自分の言動のなにもかもが信じられなかった。触れられそうになったユウのほうこそ動揺していると思うのに、痛むほど胸が高鳴り、これ以上話を続けていられなくなる。

 ひどい動揺の中、再び、ぼんやりとユウの口元を見つめた。
 唇がはっきり見える。向かって右側――唇の右端に、小さなほくろが鮮明に覗いていた。そんなところまで見えているにもかかわらず、顔は相変わらず真っ白だし、口以外は依然としてのっぺらぼうのまま。
 それこそが、彼が肝心な記憶を思い出せずにいることの証明なのかもしれなかった。個人を判別するという意味では、顔は、人の身体の中で最も重要な部分だろうから。

「……あの」

 ごめん、と言いかけ、結局は言えずに口を噤んだ。
 なにについての謝罪なのか、ユウに分かってもらえる自信がなかった。それに、なにを謝っているのかユウに問われたとして、彼をまっすぐ見つめて理由を説明できるだけの気力は今の私にない。

 新たに記憶が戻ったから、口元が判別できるようになったのだと思う。
 ユウはなにを思い出したんだろう。本人に問うのは失礼だろうか。私は私で、余計なことまで問い質してしまいそうで怖かった。
 結婚を考えるくらいに大切な恋人がいたなら、私がユウに思いを寄せ続けるのはあまりに不毛なのでは……いや、それ以前の問題だ。そもそもユウは幽霊で、その時点で私のこの気持ちは十分に不毛だ。
 この恋には、失恋という結果しかついてこない。私のユウへの思いは、たとえ天地がひっくり返ろうと、絶対に実を結ばない。

『カナオ』
「……ん?」
『さっきからどうした? 具合でも悪いのか』
「あ……ううん。大丈夫」

 無理に笑って返した。ユウの視線がどこを向いているのか分からないからこそ、作り笑いを浮かべていられた。
 見えるようになったばかりの口でなにかを言いかけたユウは、けれど無言を貫いたきり、再び口を噤んでしまった。