「……あ……」

 呆然とした呟きが零れた途端、男が「ぎゃあ」と悲鳴をあげた。支離滅裂な言葉を叫び、足をもつれさせながら、彼は園内から逃げ去っていく。
 静かになったその場に落ちた沈黙は、私には長く感じられたけれど、きっとほんの数秒だった。さっきまで揺れていた木々に視線を向け、次いで手元の教科書とノートを眺める。微かに折れたノートの端に指を伸ばすと、背後から声が聞こえてきた。

『カナオ。大丈夫か』
「っ、あ……う、うん」

 ノートに触れた指が、びくりと震えて固まる。
 すぐに振り返る気にはなれなかった。なんと返せばいいか考えが及ばず、私はぼうっとした頭でそれだけを返す。
 雨の音が強くなってくる。おそるおそる振り返ると、私に折り重なるようにして立つユウがいた。かなりぼんやり見えていた彼は、次第にその輪郭をはっきりと浮き立たせ……ようやく、私は安堵の息を落とした。

『ずっと呼んでた。あんた、雨も降ってないのになんでこんなところに来たんだ』
「そ、それは……」
『あいつ、たまに来るんだ。雨が降ってなくて、遊んでる子供がいない日だけ。そこらのベンチに座って昼間から飲んだくれてる』
「っ、そう、なんだ……」

 まだ頭が回らない。
 なんとか絞り出した相槌を聞き入れたらしいユウは、厳しい声で続けた。

『危ないから、雨の日以外は来ちゃ駄目だ。それもひとりでなんて』

 いつもより語調の強い、叱責に近い声だった。瞼が濡れる感触を確かに感じ取り、それでもなんとか堪え、私は「ごめん」と呟き返す。
 無理に声を出したからか、締めつけるような痛みが喉を走った。我ながらひどい声だ。掠れきったそれは、ユウの声より遥かにくぐもっていた。

『……雨が降ってきて、良かった』

 普段より近くから聞こえるユウの声が、異様に堪えた。慌てて首を横に振り、浮かんだ涙を乾かそうとすると、ユウは私の隣に腰かけた。
 白い指が、労るように私の指を包み込む。指だ。私のそれと――人のそれと同じ形をした、色だけが人と異なる指。爪の有無どころか、その長さまで分かるほどに輪郭が明瞭な。
 思えば、足もそうだった。爪がはっきり分かるほど鮮明になったユウの足の甲、前に会ったときに見たそれが不意に脳裏を過ぎる。ベンチの下を覗けば、今だって確認できるのだろう。

 今度は、別の理由で泣きたくなった。
 私に触れられないことはユウだって知っているはずなのに、ユウがこんな仕種を取る理由はなんだ。
 期待してしまいそうになる。ただでさえ自覚する寸前だったのに、こうして危ないところを助けられて、労るように手を重ねられては、これ以上のごまかしなど利きそうにない。

 ユウが好きだ。
 私は、顔も分からない幽霊に恋をしている。

 触れ合っているようにしか見えないのに、指が触れる感触はない。ユウの白い指先を目で追いながら、ふと、私は折り目がつくくらいにめくれ上がったノートの端のことを思い出した。
 そちらに視線を移すと、やはり数枚、派手にめくられた跡の残るノートが視界に映り込む。

 ……ユウは、どうしてノートに(さわ)れたんだろう。
 今、私の指になにかが触れる感触はない。つまり、ユウは私の指に触れられていない。だというのに、さっきはノートに()れていた。
 木もそうだ。一本、また一本と順に揺れ始めた木々に、きっとユウは()れていた。あの揺れ方を考えるなら、体当たりでもしたのかもしれない。けれどユウは幽霊だ。私が指を伸ばしても通り抜けてしまうその身体で、どうやって木を揺らしたのか。

 しんとした公園の中、自分の吐息だけが聞こえる。
 浅かった呼吸は落ち着きを取り戻し始め、それなのに、自分の指とユウの指が重なるさまを目にしてまた上がり……そんなことを繰り返しているうち、ざあ、と木々がざわめく音がして我に返った。
 東屋の柱に申し訳程度に取りつけられた古い雨樋から、ちょろちょろと水が流れ出ている。雨が強くなってきているらしい。思えば、東屋の天井を打つ雨音も、さっきまでより大きくなっている。

 二度浮かんだ涙は、結局、二度とも零れ落ちることはなかった。
 泣かずに済んで良かったという安堵に、いっそ泣ければ良かったのにというほのかな落胆が重なる。矛盾したふたつの気持ちを、小さく首を振って頭の中から追い払った後、私は静かに口を開いた。

「あ……あの、ユウ。私、そろそろ帰るよ」
『送る』
「え?」
『家まで送る。ああ、中には入らないから安心してくれ』

 目を見開いた。ユウはそれ以上なにも言わず、私にも起立を促すように立ち上がる。
 安心してほしいと言われても、私が気に懸けている点は家の中に入ってこられることではない。だが、言い返そうとしたときには、すでにユウは私に背を向けて東屋を出たところだった。
 慌てて傘を開き、ユウの隣に並ぶ。こんなに強引な彼を初めて見たからか、そわそわして落ち着かなかった。

 公園の出入り口を通り抜け、垣根の横をふたりで歩く。置いていかれるのではと不安になるほどそっけなく見えたユウの足元は、いざ並んで歩き始めてみれば、私の歩幅に合わせるようにゆっくりと動いてくれている。
 剥き出しの足の甲は、あえて視界に入れなかった。今の心境でそれを見たら最後、今度こそ泣いてしまいそうだった。
 雨脚はかなり激しくなっている。多少の言葉を交わしたとして、周囲に誰かがいても声を拾われるとは思えなかった。けれど、私はなにも言えなかったし、ユウもなにも言わなかった。無言のまま、ふたり並んで、私の家までそう長くもかからない道を進んでいく。

 雨も風も強かった日曜に、ユウを児童公園まで迎えに行き、自室に招いたことがあった。あのときも、部屋に招いた後、幽霊を相手にどうしてこんなことをしているのかと自問するくらいには、私は自分の行動を意外に思っていた。
 でも、ユウに対する今の私の気持ちはあのときの比ではない。男友達――いや、恋人に送ってもらっているかのような、浮かれた錯覚を抱きそうになる。

 自宅には、すぐに到着してしまった。
 玄関のドアの前で傘を閉じ、私は改めてユウに向き直る。ユウは少し離れた場所に佇んでいた。きっと、彼の視線もまた私に向いている。

「……ありがとう。じゃあ、またね」

 周囲に誰もいないことを確認してから、小声で伝えた。
 ユウは『うん』と返事をして、私が玄関のドアを開け、中に入り、扉を閉じるまで、ずっと手を振ってくれていた。ドアが閉まりきる最後の最後まで、瞼に焼きついてしまうのではと不安になってくるほど、私はユウの白い指をじっと見つめていた。
 小さな音を立ててドアが閉じた後、内側からドアに寄りかかり、震える息をそっと吐き出す。

『雨の日以外は来ちゃ駄目だ』
『降ってきて、良かった』

 東屋でのユウの言葉を、勘違いして受け取りそうになる。
 自分に会う日以外はこの公園に来る必要なんてないだろうと怒っているようにも取れるし、雨が降って私に認識してもらえたことを喜んでいるようにも取れる……だが。
 そういうふうに考えたがる自分が、不意に怖くなる。私は、ユウの言葉を、都合のいいように捉えてしまいたいだけだ。

「……はぁ」

 余計な想像ばかりが膨らみ、顔が熱い。
 雨のせいで微かに濡れた髪ごと押さえるように頭を抱え、そのまま、私は玄関に座り込んでしまった。