逃げるように児童公園を去ったその日の午後、雨は一旦やんだ。昼休みには雲の切れ間から晴れ間さえ覗いた。
窓の外を眺めながら、私は天候の変化にほっとしていた。その癖、朝にあんな別れ方をしておいて、またユウに会いたいとも思っている。矛盾ばかりしている自分が、自分でももうよく分からない。
私は、なんて失礼な人間なんだ。辟易してしまう。
私がユウに協力すればするほど、ユウは記憶を取り戻しやすくなる。記憶がすべて戻る日が訪れたとして、そのときユウはどうするのか。自分の死を受け入れられたなら、納得できるだけの材料が揃ったなら、ユウは。
……そのまま消えてしまうのではないか。今の私はそれを恐れている。自分から協力すると切り出しておいて、無責任だ。
初めて遭遇したときの、今よりずっと朧げだったユウの姿を思い出す。
あの頃の私には想像すらできないくらいに、ユウは前向きになった。自分でいろいろな場所に出向いて、市立病院にだって自力で向かって……電柱の下にひっそりとうずくまっていたユウは、もうどこにもいない。
これからは私の協力など不要とばかり、ひとりで記憶の糸口を見つけていくのかもしれない。
「……それでいいじゃん……」
五時限目の移動教室に合わせて賑わう教室の隅で、私は独り言を零した。
そう。それでいい。それなのに、そんなのは嫌だとも思う。身勝手な自分に嫌気が差してくる。
私は、本当はユウにどうしてほしいんだ。
私を頼ってほしい気持ちは嘘ではない。けれど、それだけではない気もしてしまう。いなくならないでほしいという気持ちも嘘ではない。そうでなければ、元々憂鬱でならなかった雨の日を、こんなにも待ち遠しく思うわけがない。
――待ち遠しい?
溜息が零れたと同時に、目元を指で押さえた。
その通りだ。今の私は雨の日を待ち望んでいる。ユウに会える日が楽しみで、嬉しくて、味気ないビニール傘から新しい傘に買い換えて――眩暈がした。自分は、自分で思っているよりも遥かに、ユウと会える日を心待ちにしている。
なにこれ。まるで、ユウを好きになってしまったみたいだ。顔も見えない幽霊を相手に、なにを馬鹿な……心の底からそう思っているはずなのに、気分は一向に晴れない。
移動教室の準備を雑に済ませ、私は教室を後にした。
*
昼に覗いた晴れ間は、午後にはまた厚い雲に隠れた。やがて朝とよく似たどんよりした天候に戻り、私は嬉しいようながっかりしたような、複雑な気分を持て余していた。
明日は土曜。学校は休みだ。
最近の天気予報はたまに外れるけれど、土日はよく晴れるという予報が出ている。児童公園に向かったとして、ユウには会えないと思っていたほうがいい。
放課後、今にも降り出しそうな空模様の中、結局私は児童公園を目指す。
花梨は、今日の午後に退院するらしい。本人からメッセージを受け取っていたし、細谷先生からも直接聞いた。細谷先生の担当教科は現国で、私のクラスの現国も彼が担当している。授業が終わった後に教えてくれた。
花梨からのメッセージは、今日は珍しく届いていない。時刻は午後三時四十分を少し回ったところだ。そろそろ病院を出た頃か。それとも、まだ家には帰れていないだろうか。月曜に行った見舞いが、随分と前に感じられてしまう。
多分、その間のユウの変化が著しかったからだ。それから、ユウに対する私の気持ちの変化も。
東屋に向かったとして、今の私にはユウの姿を確認できない。これほどどんよりとした雨雲が上空を覆っていても、雨は降っていないのだから。
「……はぁ」
溜息が零れた。
とぼとぼと歩く私の他に、人の気配はなかった。大通りを過ぎて住宅街の細い市道に入ってしまえば、車通りも人通りもそう多くない。実際、晴れでも曇りでも雨でも、人通りなんて大して変わらないのかもしれなかった。
この天気なら、東屋にひとり佇んでいても怪しまれない気がする。今日はカモフラージュではなく、真面目に教科書か参考書を広げてみようか。
児童公園に足を踏み入れ、東屋に視線を向ける。やはりユウの姿は見えない。分かっていたのに、またも大きな溜息が口をついて出た。
東屋まで足を伸ばし、いつもの古びたベンチに腰かける。座った隣に通学鞄を下ろし、不意に、ユウは今どこにいるのかなと思う。もしここにいて私が見えているなら、話もできないのに来てしまって申し訳ないな、とも。
雨が降っていないときの私に、ユウの存在を感じ取る手段はない。姿が見えない。声も聞こえない。いるかいないかも分からない。今すぐ声が聞きたいと思っても、できやしないのだ。そんなこと。
……困った。本当に、恋でもしているみたいだ。今度は溜息ではなく自嘲の笑みが零れた。
開いた日本史の教科書相手に、碌に集中できるわけもない。テーブルに肘をつき、適当に次のページをめくった、そのときだった。
「へへぇ、お嬢さん、お勉強かい?」
知らず思い描いていたユウの声とは似ても似つかない、掠れた男性の声がした。はっと顔を上げると、東屋の外に赤ら顔の男性が佇んでいた。
背筋が強張る。いつの間にこんなに近くに……ぼうっとしていたことも確かだけれど、まったく気配を感じ取れなかった。
男性の顔は赤く、それにタバコ臭い。多少の距離があるにもかかわらず、私が座っている辺りまで副流煙のにおいが漂ってくる。顔が赤いのは飲酒しているからだろうか。彼の手にはコンビニのビニール袋がぶら下がっていて、中には缶飲料が入っているように見えた。
「っ、あ……ええ、と」
咄嗟に言葉が出てこない。頭が真っ白になる。
小太りな男性はヘラヘラと笑っていて、その視線に下卑た気配を感じ取った。気持ち悪いと思って、けれど単に私がそう錯覚しているだけかもしれないとも思う。
この場所に座りたいのかもしれない。暗に、私が邪魔だと言っているのかも。
「す、すみません。邪魔でしたらどきます、」
「いやいやいいんだよぉ、オジサンも交ぜてくれよ~」
教科書とノートを通学鞄に戻そうと震える手を動かした途端、男が一気に間合いを詰めてきた。
息が止まる。にやにや笑う赤ら顔が近づいてきて、気持ち悪いと思って、しかし次の瞬間にはやはり、気持ち悪いなどと本当に思っていいのか判断がつかなくなる。
知らない人を相手に失礼ではないのか、なぜここまで距離を詰めてくるのか、どうして笑っているのか、どう見ても下品な笑い方をしていないか――さまざまな思考が怒涛のごとく脳裏を巡り、混乱のせいで目が回りそうになった、そのときだった。
前触れもなにもなく、グラ、と東屋の傍の木が揺れた。
一本のみではなく、並んでいる順に次々と揺れていく。幹になにかがぶつかり、その振動で末端の枝と葉が揺さぶられているような、そういう揺れ方に見えた。
「あァん、なんだぁ?」
固まったきりの私を横目に、男は木々に注意を寄せている。そうしているうち、今度は私の真ん前に置かれた教科書とノートがバサバサと激しくめくれ始めた。
風ではない。風はほとんど吹いていない。どちらかといえば、指がページを勢い良くめくっている感じ。現に、ノートの端の一部には、書物を雑にめくったときにできるものとよく似た折り目がついていた。
赤ら顔の男が、木々に次いで、勝手に動くテーブル上の冊子に視線を移した。なんだなんだ、と困惑した声をあげる男の顔がみるみる強張っていく。一方の私は、今が逃げる絶好のチャンスだと分かっていながら、身動きひとつ取れないほど固まってしまっていた。
そのとき、ぽたりと水音が聞こえた。
動けないまま視線だけを東屋の外に向けると、ひと筋、線状に空から落ちてくるなにかが覗き、それは地面に吸い込まれるようにして消える。瞬間、それはぽつ、と特有の音を立て、私は大きく目を見開いた。
――雨だ。
そう気づいたと同時に、男が「ひぃ」と怯えたような声をあげた。思わず視線を向けると、男は今にも腰を抜かしそうな形相で、一歩、また一歩と足を後方に下げていく。
見開かれた男の目には怯えが宿っていた。彼の視線が捉えているものは私ではない。私の、ちょうど頭の上辺りを凝視している。
はっとして頭上を見上げた。
……おそらく、雨がまだ弱いからなのだろう。普段よりもぼんやりとした輪郭しか持たないユウが、私の背を覆うようにして、静かにそこへ佇んでいた。
窓の外を眺めながら、私は天候の変化にほっとしていた。その癖、朝にあんな別れ方をしておいて、またユウに会いたいとも思っている。矛盾ばかりしている自分が、自分でももうよく分からない。
私は、なんて失礼な人間なんだ。辟易してしまう。
私がユウに協力すればするほど、ユウは記憶を取り戻しやすくなる。記憶がすべて戻る日が訪れたとして、そのときユウはどうするのか。自分の死を受け入れられたなら、納得できるだけの材料が揃ったなら、ユウは。
……そのまま消えてしまうのではないか。今の私はそれを恐れている。自分から協力すると切り出しておいて、無責任だ。
初めて遭遇したときの、今よりずっと朧げだったユウの姿を思い出す。
あの頃の私には想像すらできないくらいに、ユウは前向きになった。自分でいろいろな場所に出向いて、市立病院にだって自力で向かって……電柱の下にひっそりとうずくまっていたユウは、もうどこにもいない。
これからは私の協力など不要とばかり、ひとりで記憶の糸口を見つけていくのかもしれない。
「……それでいいじゃん……」
五時限目の移動教室に合わせて賑わう教室の隅で、私は独り言を零した。
そう。それでいい。それなのに、そんなのは嫌だとも思う。身勝手な自分に嫌気が差してくる。
私は、本当はユウにどうしてほしいんだ。
私を頼ってほしい気持ちは嘘ではない。けれど、それだけではない気もしてしまう。いなくならないでほしいという気持ちも嘘ではない。そうでなければ、元々憂鬱でならなかった雨の日を、こんなにも待ち遠しく思うわけがない。
――待ち遠しい?
溜息が零れたと同時に、目元を指で押さえた。
その通りだ。今の私は雨の日を待ち望んでいる。ユウに会える日が楽しみで、嬉しくて、味気ないビニール傘から新しい傘に買い換えて――眩暈がした。自分は、自分で思っているよりも遥かに、ユウと会える日を心待ちにしている。
なにこれ。まるで、ユウを好きになってしまったみたいだ。顔も見えない幽霊を相手に、なにを馬鹿な……心の底からそう思っているはずなのに、気分は一向に晴れない。
移動教室の準備を雑に済ませ、私は教室を後にした。
*
昼に覗いた晴れ間は、午後にはまた厚い雲に隠れた。やがて朝とよく似たどんよりした天候に戻り、私は嬉しいようながっかりしたような、複雑な気分を持て余していた。
明日は土曜。学校は休みだ。
最近の天気予報はたまに外れるけれど、土日はよく晴れるという予報が出ている。児童公園に向かったとして、ユウには会えないと思っていたほうがいい。
放課後、今にも降り出しそうな空模様の中、結局私は児童公園を目指す。
花梨は、今日の午後に退院するらしい。本人からメッセージを受け取っていたし、細谷先生からも直接聞いた。細谷先生の担当教科は現国で、私のクラスの現国も彼が担当している。授業が終わった後に教えてくれた。
花梨からのメッセージは、今日は珍しく届いていない。時刻は午後三時四十分を少し回ったところだ。そろそろ病院を出た頃か。それとも、まだ家には帰れていないだろうか。月曜に行った見舞いが、随分と前に感じられてしまう。
多分、その間のユウの変化が著しかったからだ。それから、ユウに対する私の気持ちの変化も。
東屋に向かったとして、今の私にはユウの姿を確認できない。これほどどんよりとした雨雲が上空を覆っていても、雨は降っていないのだから。
「……はぁ」
溜息が零れた。
とぼとぼと歩く私の他に、人の気配はなかった。大通りを過ぎて住宅街の細い市道に入ってしまえば、車通りも人通りもそう多くない。実際、晴れでも曇りでも雨でも、人通りなんて大して変わらないのかもしれなかった。
この天気なら、東屋にひとり佇んでいても怪しまれない気がする。今日はカモフラージュではなく、真面目に教科書か参考書を広げてみようか。
児童公園に足を踏み入れ、東屋に視線を向ける。やはりユウの姿は見えない。分かっていたのに、またも大きな溜息が口をついて出た。
東屋まで足を伸ばし、いつもの古びたベンチに腰かける。座った隣に通学鞄を下ろし、不意に、ユウは今どこにいるのかなと思う。もしここにいて私が見えているなら、話もできないのに来てしまって申し訳ないな、とも。
雨が降っていないときの私に、ユウの存在を感じ取る手段はない。姿が見えない。声も聞こえない。いるかいないかも分からない。今すぐ声が聞きたいと思っても、できやしないのだ。そんなこと。
……困った。本当に、恋でもしているみたいだ。今度は溜息ではなく自嘲の笑みが零れた。
開いた日本史の教科書相手に、碌に集中できるわけもない。テーブルに肘をつき、適当に次のページをめくった、そのときだった。
「へへぇ、お嬢さん、お勉強かい?」
知らず思い描いていたユウの声とは似ても似つかない、掠れた男性の声がした。はっと顔を上げると、東屋の外に赤ら顔の男性が佇んでいた。
背筋が強張る。いつの間にこんなに近くに……ぼうっとしていたことも確かだけれど、まったく気配を感じ取れなかった。
男性の顔は赤く、それにタバコ臭い。多少の距離があるにもかかわらず、私が座っている辺りまで副流煙のにおいが漂ってくる。顔が赤いのは飲酒しているからだろうか。彼の手にはコンビニのビニール袋がぶら下がっていて、中には缶飲料が入っているように見えた。
「っ、あ……ええ、と」
咄嗟に言葉が出てこない。頭が真っ白になる。
小太りな男性はヘラヘラと笑っていて、その視線に下卑た気配を感じ取った。気持ち悪いと思って、けれど単に私がそう錯覚しているだけかもしれないとも思う。
この場所に座りたいのかもしれない。暗に、私が邪魔だと言っているのかも。
「す、すみません。邪魔でしたらどきます、」
「いやいやいいんだよぉ、オジサンも交ぜてくれよ~」
教科書とノートを通学鞄に戻そうと震える手を動かした途端、男が一気に間合いを詰めてきた。
息が止まる。にやにや笑う赤ら顔が近づいてきて、気持ち悪いと思って、しかし次の瞬間にはやはり、気持ち悪いなどと本当に思っていいのか判断がつかなくなる。
知らない人を相手に失礼ではないのか、なぜここまで距離を詰めてくるのか、どうして笑っているのか、どう見ても下品な笑い方をしていないか――さまざまな思考が怒涛のごとく脳裏を巡り、混乱のせいで目が回りそうになった、そのときだった。
前触れもなにもなく、グラ、と東屋の傍の木が揺れた。
一本のみではなく、並んでいる順に次々と揺れていく。幹になにかがぶつかり、その振動で末端の枝と葉が揺さぶられているような、そういう揺れ方に見えた。
「あァん、なんだぁ?」
固まったきりの私を横目に、男は木々に注意を寄せている。そうしているうち、今度は私の真ん前に置かれた教科書とノートがバサバサと激しくめくれ始めた。
風ではない。風はほとんど吹いていない。どちらかといえば、指がページを勢い良くめくっている感じ。現に、ノートの端の一部には、書物を雑にめくったときにできるものとよく似た折り目がついていた。
赤ら顔の男が、木々に次いで、勝手に動くテーブル上の冊子に視線を移した。なんだなんだ、と困惑した声をあげる男の顔がみるみる強張っていく。一方の私は、今が逃げる絶好のチャンスだと分かっていながら、身動きひとつ取れないほど固まってしまっていた。
そのとき、ぽたりと水音が聞こえた。
動けないまま視線だけを東屋の外に向けると、ひと筋、線状に空から落ちてくるなにかが覗き、それは地面に吸い込まれるようにして消える。瞬間、それはぽつ、と特有の音を立て、私は大きく目を見開いた。
――雨だ。
そう気づいたと同時に、男が「ひぃ」と怯えたような声をあげた。思わず視線を向けると、男は今にも腰を抜かしそうな形相で、一歩、また一歩と足を後方に下げていく。
見開かれた男の目には怯えが宿っていた。彼の視線が捉えているものは私ではない。私の、ちょうど頭の上辺りを凝視している。
はっとして頭上を見上げた。
……おそらく、雨がまだ弱いからなのだろう。普段よりもぼんやりとした輪郭しか持たないユウが、私の背を覆うようにして、静かにそこへ佇んでいた。