翌朝、金曜。午後には雨がやむという天気予報を見て、朝から気が滅入った。
朝のうちに会えたらいいなと早めに家を出たが、約束をしたわけではないから会える確証はない。それに前日の朝、ユウはあの児童公園にいなかった。今日もどこかに出かけている可能性は十分にある。
深く沈む気持ちをなんとか鼓舞し、私は公園の出入り口前で立ち止まった。深呼吸してから東屋を見やると……いた。
白い影が見える。良かった。今日は大丈夫だった。
東屋に足を踏み出そうとしたとき、ユウも私に気づいたらしく、彼は座っていたベンチから腰を浮かせた。
移動しようとしておいて、私はそれ以上足を動かすことをためらってしまう。朝は、下校の時間帯よりも通りに人が多い。雨の中、登校中と思しき女子高生が児童公園に足を踏み入れる理由など、そう思いつかない。もし誰かに見つかれば、怪しまれる以外にないだろう。
躊躇を抱えていると、いつの間にかユウは私が立ち止まっている出入り口の傍まで歩み寄ってきていた。
……そのまま、私は言葉を失ってしまった。遠目には気づかなかったけれど、昨日の夕方に会ったときよりも明らかに、ユウは。
「ユウ。あの……背」
『せ?』
「ええと、身長。なんか……昨日より、伸びてる」
しどろもどろに伝えつつ、私の首は斜め上に向かって曲がる。傘の隙間から見えたユウの顔は、いつもと同じのっぺらぼうだ。でも、彼の頭の位置は、昨日までとは比較にならないくらいに高い。
まとったシーツに収まりきらなくなった足――裸足の指の爪が目に留まる。足だ。人のそれと変わらない、色だけがぼうっと白い、足。
落ちた沈黙は、多分一瞬だった。わずかな間の後、ユウが困惑したように呟く。
『そういえば……あんた、縮んでるな……』
「ち、違う。逆だってば」
的外れな返事にツッコミを入れつつも、私の困惑はちっとも和らがない。
なにか思い出したのかもしれない。もしかして、昨日の報告が影響しているのでは……胸がざわざわ騒ぎ出す。
記憶を取り戻すにつれ、ユウは姿をより明確にしていくのかもしれない。それは確信に近かった。
最初に遭遇した夜より、今のユウは人間らしくなっている。姿形も、言動も。おそらく、私とのやり取りが刺激になっている――なんと声をかけようかためらっているうち、先にユウが口を開いた。
『ああ、そうだ。昨日の夜、行ってきたぞ。市立病院』
「えっ!? ば、場所、分かるの?」
思わず声を張り上げてしまう。
私には見えない口の辺りに、ユウは慌てた素振りで指を添える。はっとして口を押さえると、つられたのか、ユウまで声をひそめて喋り出した。
『バス停、市立病院行きってやつがあったから。それに乗った』
「えっ、バス乗れるの、ユウ? っていうかそれってタダ乗りじゃ……」
『し、仕方ないだろう。金なんて持ってないし、だいたい誰も俺に気づいてくれないのにどうやって払えっていうんだ』
くぐもった声ながらも早口で喋るユウが珍しく、笑いそうになったところを無理やり堪えた。
ユウがバスに乗れるという話は新鮮だった。人には触れられないのに、物には触れられるのか……いわれてみれば、私の自宅に来たときに普通に階段を上っていたし、そもそも普段から東屋のベンチに座っている。単に生き物に触れないだけなのかもしれない。
黙り込んでいると、ユウは『はぁ』とわざとらしく溜息をついた。人の気配がないことを念入りに確認し、小さく安堵の息を落としてから、私は再び口を開く。
「ええと、病院に忍び込んだってこと?」
『まぁそんなところだ。外来とか、後は病棟の廊下とかナースステーションとか……いろいろ歩いてきた』
「そ、そっか。なんか分かった?」
『いや。入院してるらしい人とすれ違ったし、病室の中も何部屋か覗いてみたけど、自分の顔も名前もよく分からないから……特にはピンとこなかった。でも』
雨粒が傘を打つ音が、耳の奥に強く響く。
不意に途切れた話の続きが気になって仕方ないのに、顔を上げられない。その理由は、顔を上げたとしてもユウと視線が合うわけではないという、それだけではなかった。深い困惑が滲んでいるだろう今の自分の顔を、ユウに見られたくなかったからだ。
『覚えのある人はいなかったと思う。ただ、病棟の廊下には見覚えがある気がした。あの病院で死んだのかもな、俺』
言葉の最後に、ふふ、と笑う声がした。
幽霊のユウ。もう何週前になるだろう、適当にもほどがあるあだ名を私が提案したときにもユウは笑った。そのときとよく似た笑い方に聞こえ、胸が締めつけられる。
『カナオのおかげで、いろんなことを思い出せてきてる気がする。ありがとう』
「……ユウ」
言葉が出てこない。今が朝であることも登校中であることも、全部どうでも良くなってしまいそうで、怖かった。
ありがとうなんて言われたくなかった。どうして私はユウの記憶を取り戻すために協力しているのだったか、激しく揺らぎ、どんどん分からなくなっていく。
ユウが自分の記憶を取り戻したがっているのは、どうしてなんだっけ。
歯がゆい。悔しい。自分のことが自分で分からない状態を、以前、ユウはそう言い表した。私はそれを受け止めたつもりだった。ユウが望むならできる限り協力してあげたいと、確かに思って……それなのに。
足元に視線を落としたきり、迷子のような気分に陥る。分からない。どうして、こんなに居た堪れない気分になるのか。
ユウは、それを本当に思い出してしまっても、いいの?
やっとのことでそう問おうと口を開きかけた矢先、落とした視線の先で、ユウの素足がわずかに動いた。
『……でも』
「ん?」
『大事なことを、まだ、思い出せてない気は……する』
言い淀むような口調が気に懸かり、私は顔を上げた。
広げた傘に溜まっていた雨粒が、骨の先から一斉に落ちる。飛沫が微かに頬を掠め、私は顔をしかめた。その拍子に、ユウののっぺらぼうの顔をついに視界に収めてしまった。
相手の顔を見ているということは、相手にも私の顔が見えているということだ。けれど、雨の中を靴もなしに歩くユウの足元を見ているよりは、そのほうがずっと気楽だとも思う。
前は見えなかったのに、今は爪の有無まで判別がつくようになった、人と同じ形をしたユウの足。色だけが人肌とは明らかに異なっていて、ひたすら白くて――今の私にとって、それは直視できないくらいに衝撃的なものだった。
「……大事なこと?」
『うん。こういう状態になってでも誰かに伝えたかったこと、あった気がして』
ユウの声が途切れ、辺りには再び沈黙が舞い戻る。
いくら早めに家を出たとはいっても、これ以上は遅刻してしまう。そう思うのに、鉛でも詰められたのかと思うほど、ちっとも足が動かない。
「あの。急いで思い出さなくても、別にいいんじゃない?」
『……カナオ?』
「ええと。私、そろそろ行くね」
『あ……そうか。そうだな』
はっとして声をあげたユウから、傘を傾けて視線を外した。
ユウが記憶を取り戻していくその先に、なにがあるのか。私はそれを知っていたはずなのに、知った上で協力したいと思ったのに、息が詰まってならなくて、いっそ雨に紛れて泣いてしまえたらいいのにとまで思う。
「じゃあ、またね」
ユウの返事を待たず、私は早々に踵を返した。
そうしなければ、二度と動けなくなりそうだった。ユウはとっくに死んでいて、幽霊で、いずれは私を置いて成仏なりなんなりして、私の前からいなくなる。
いなくなってしまうんだ。
それも、そう遠くない未来に。
初めてそのことを怖いと思った。怖いと思う気持ちこそを原動力にしない限り、もう動けそうにないほど、余力なんかこれっぽっちも残っていなかった。
夕方には雨がやんでいればいい。こんなにも息苦しくて、次にどんな顔をしてユウに会ったらいいのか、少しも分からない。
ほとんど走るようにして、私は児童公園を後にした。
朝のうちに会えたらいいなと早めに家を出たが、約束をしたわけではないから会える確証はない。それに前日の朝、ユウはあの児童公園にいなかった。今日もどこかに出かけている可能性は十分にある。
深く沈む気持ちをなんとか鼓舞し、私は公園の出入り口前で立ち止まった。深呼吸してから東屋を見やると……いた。
白い影が見える。良かった。今日は大丈夫だった。
東屋に足を踏み出そうとしたとき、ユウも私に気づいたらしく、彼は座っていたベンチから腰を浮かせた。
移動しようとしておいて、私はそれ以上足を動かすことをためらってしまう。朝は、下校の時間帯よりも通りに人が多い。雨の中、登校中と思しき女子高生が児童公園に足を踏み入れる理由など、そう思いつかない。もし誰かに見つかれば、怪しまれる以外にないだろう。
躊躇を抱えていると、いつの間にかユウは私が立ち止まっている出入り口の傍まで歩み寄ってきていた。
……そのまま、私は言葉を失ってしまった。遠目には気づかなかったけれど、昨日の夕方に会ったときよりも明らかに、ユウは。
「ユウ。あの……背」
『せ?』
「ええと、身長。なんか……昨日より、伸びてる」
しどろもどろに伝えつつ、私の首は斜め上に向かって曲がる。傘の隙間から見えたユウの顔は、いつもと同じのっぺらぼうだ。でも、彼の頭の位置は、昨日までとは比較にならないくらいに高い。
まとったシーツに収まりきらなくなった足――裸足の指の爪が目に留まる。足だ。人のそれと変わらない、色だけがぼうっと白い、足。
落ちた沈黙は、多分一瞬だった。わずかな間の後、ユウが困惑したように呟く。
『そういえば……あんた、縮んでるな……』
「ち、違う。逆だってば」
的外れな返事にツッコミを入れつつも、私の困惑はちっとも和らがない。
なにか思い出したのかもしれない。もしかして、昨日の報告が影響しているのでは……胸がざわざわ騒ぎ出す。
記憶を取り戻すにつれ、ユウは姿をより明確にしていくのかもしれない。それは確信に近かった。
最初に遭遇した夜より、今のユウは人間らしくなっている。姿形も、言動も。おそらく、私とのやり取りが刺激になっている――なんと声をかけようかためらっているうち、先にユウが口を開いた。
『ああ、そうだ。昨日の夜、行ってきたぞ。市立病院』
「えっ!? ば、場所、分かるの?」
思わず声を張り上げてしまう。
私には見えない口の辺りに、ユウは慌てた素振りで指を添える。はっとして口を押さえると、つられたのか、ユウまで声をひそめて喋り出した。
『バス停、市立病院行きってやつがあったから。それに乗った』
「えっ、バス乗れるの、ユウ? っていうかそれってタダ乗りじゃ……」
『し、仕方ないだろう。金なんて持ってないし、だいたい誰も俺に気づいてくれないのにどうやって払えっていうんだ』
くぐもった声ながらも早口で喋るユウが珍しく、笑いそうになったところを無理やり堪えた。
ユウがバスに乗れるという話は新鮮だった。人には触れられないのに、物には触れられるのか……いわれてみれば、私の自宅に来たときに普通に階段を上っていたし、そもそも普段から東屋のベンチに座っている。単に生き物に触れないだけなのかもしれない。
黙り込んでいると、ユウは『はぁ』とわざとらしく溜息をついた。人の気配がないことを念入りに確認し、小さく安堵の息を落としてから、私は再び口を開く。
「ええと、病院に忍び込んだってこと?」
『まぁそんなところだ。外来とか、後は病棟の廊下とかナースステーションとか……いろいろ歩いてきた』
「そ、そっか。なんか分かった?」
『いや。入院してるらしい人とすれ違ったし、病室の中も何部屋か覗いてみたけど、自分の顔も名前もよく分からないから……特にはピンとこなかった。でも』
雨粒が傘を打つ音が、耳の奥に強く響く。
不意に途切れた話の続きが気になって仕方ないのに、顔を上げられない。その理由は、顔を上げたとしてもユウと視線が合うわけではないという、それだけではなかった。深い困惑が滲んでいるだろう今の自分の顔を、ユウに見られたくなかったからだ。
『覚えのある人はいなかったと思う。ただ、病棟の廊下には見覚えがある気がした。あの病院で死んだのかもな、俺』
言葉の最後に、ふふ、と笑う声がした。
幽霊のユウ。もう何週前になるだろう、適当にもほどがあるあだ名を私が提案したときにもユウは笑った。そのときとよく似た笑い方に聞こえ、胸が締めつけられる。
『カナオのおかげで、いろんなことを思い出せてきてる気がする。ありがとう』
「……ユウ」
言葉が出てこない。今が朝であることも登校中であることも、全部どうでも良くなってしまいそうで、怖かった。
ありがとうなんて言われたくなかった。どうして私はユウの記憶を取り戻すために協力しているのだったか、激しく揺らぎ、どんどん分からなくなっていく。
ユウが自分の記憶を取り戻したがっているのは、どうしてなんだっけ。
歯がゆい。悔しい。自分のことが自分で分からない状態を、以前、ユウはそう言い表した。私はそれを受け止めたつもりだった。ユウが望むならできる限り協力してあげたいと、確かに思って……それなのに。
足元に視線を落としたきり、迷子のような気分に陥る。分からない。どうして、こんなに居た堪れない気分になるのか。
ユウは、それを本当に思い出してしまっても、いいの?
やっとのことでそう問おうと口を開きかけた矢先、落とした視線の先で、ユウの素足がわずかに動いた。
『……でも』
「ん?」
『大事なことを、まだ、思い出せてない気は……する』
言い淀むような口調が気に懸かり、私は顔を上げた。
広げた傘に溜まっていた雨粒が、骨の先から一斉に落ちる。飛沫が微かに頬を掠め、私は顔をしかめた。その拍子に、ユウののっぺらぼうの顔をついに視界に収めてしまった。
相手の顔を見ているということは、相手にも私の顔が見えているということだ。けれど、雨の中を靴もなしに歩くユウの足元を見ているよりは、そのほうがずっと気楽だとも思う。
前は見えなかったのに、今は爪の有無まで判別がつくようになった、人と同じ形をしたユウの足。色だけが人肌とは明らかに異なっていて、ひたすら白くて――今の私にとって、それは直視できないくらいに衝撃的なものだった。
「……大事なこと?」
『うん。こういう状態になってでも誰かに伝えたかったこと、あった気がして』
ユウの声が途切れ、辺りには再び沈黙が舞い戻る。
いくら早めに家を出たとはいっても、これ以上は遅刻してしまう。そう思うのに、鉛でも詰められたのかと思うほど、ちっとも足が動かない。
「あの。急いで思い出さなくても、別にいいんじゃない?」
『……カナオ?』
「ええと。私、そろそろ行くね」
『あ……そうか。そうだな』
はっとして声をあげたユウから、傘を傾けて視線を外した。
ユウが記憶を取り戻していくその先に、なにがあるのか。私はそれを知っていたはずなのに、知った上で協力したいと思ったのに、息が詰まってならなくて、いっそ雨に紛れて泣いてしまえたらいいのにとまで思う。
「じゃあ、またね」
ユウの返事を待たず、私は早々に踵を返した。
そうしなければ、二度と動けなくなりそうだった。ユウはとっくに死んでいて、幽霊で、いずれは私を置いて成仏なりなんなりして、私の前からいなくなる。
いなくなってしまうんだ。
それも、そう遠くない未来に。
初めてそのことを怖いと思った。怖いと思う気持ちこそを原動力にしない限り、もう動けそうにないほど、余力なんかこれっぽっちも残っていなかった。
夕方には雨がやんでいればいい。こんなにも息苦しくて、次にどんな顔をしてユウに会ったらいいのか、少しも分からない。
ほとんど走るようにして、私は児童公園を後にした。