雨はそれから三日後に降った。未明から降り続いていたらしい雨の中、私は登校途中に児童公園へ足を踏み入れた。
ところが、ユウはいなかった。
傘の柄を持ち直しながら、東屋の前に立って園内を見渡したけれど、白い影は見当たらない。大事な報告があるときに限って、と歯ぎしりしてしまいそうになる。
前回、ユウに会ったときの記憶が脳裏に浮かぶ。
あの日、ユウは自分がこの公園を離れられることに気づいた。それ自体は以前から知っていたのかもしれないが、実際に私の家まで移動してみて、より明確に自覚できるようになったのだと思う。
思えば、あの日の別れ際にも『川に行く』と言っていた。きっと今のユウは、自分の行動範囲の広がりを実感している最中だ。
「……はぁ」
帰りにまた寄ろう。そのときにはいるだろうか。そう思ったら溜息が零れた。
もどかしい。私とユウのやり取りは、親しい友人とのそれとはやはり違う。花梨となら、片方が入院していてさえ連絡を取り合えるのに、ユウとは雨の日にしか会えない。もちろん、メッセージや電話のやり取りも不可能だ。
赤い傘を片手に、私は東屋の前を離れる。
病衣の件をユウに報告しなければいけないという義務的な気持ちも、確かにあった。でもなにより、やっと降った雨のおかげで彼にまた会えることを、私は純粋に楽しみにしていたのだ。もやもやした気分は、しばらく晴れそうになかった。
午前、昼、午後。うわの空で聞いた授業の内容は、碌に頭に残らなかった。
今日は木曜。花梨は今週いっぱいで退院できるそうだ。花梨のいない放課後は、ひとまず明日で区切りになる。
急ぎ足で帰路に就く。
雨脚は、五時限目の授業中に弱まり始めていた。明日も雨の予報が出ているとはいえ、一時的に雨が上がる可能性だってある。そうなると私にはユウが見えなくなるわけで、不安に駆られた私は、放課後になるや否や学校を飛び出し、児童公園までの道を小走りに通り抜けていた。
公園は間もなくだ。ユウと初めて遭遇した電柱の傍を通り過ぎた、そのときだった。
『カナオ?』
「……っ、あ」
公園を囲むように整備された垣根を隔てた場所から、くぐもった低い声がした。
『どうした、そんなに急いで』
「あ……うん。その」
『東屋。行くぞ』
きょろきょろと首を動かすユウを見て、私もはっとした。ユウが、周囲に人気がないか確認していると気づいたからだ。
ユウが周りを確認しているところを初めて見た。ユウはユウなりに、私を気遣ってくれているのかも……そう思うと、なんだか面映かった。
東屋に辿り着くと同時に、カモフラージュの教科書を通学鞄から取り出すことも忘れ、私は声を張り上げた。
「あのね、ユウ。その服、どこの病院のか分かったかも」
『……え?』
声量こそ抑えたが、煮えきらない気持ちを三日も持て余していた分、口調には興奮が滲んでしまう。対するユウは、訝しげな声をあげたきり、ベンチに腰かけようとしている格好のまま固まっていた。
「市立病院。今ね、私の友達が入院してて、こないだお見舞いに行ってきたの。そのときにその子も同じ服、着てたから」
『入院……』
呆然と呟くユウの声は、依然として低い。またもどかしくなる。
ユウがなにを考えているのか想像しようにも、表情が分からない以上、参考になる情報は声音や仕種くらいしかない。しかもその声すら、人同士の会話とは比較にならないほどくぐもっている。誰の声かなんていう判別は、とてもつかない。
「あの、病衣って似た感じのものが多いし、もしかしたら他の病院で同じの使ってる可能性もあるかなって思うんだ、でも」
沈黙するユウがなにを考えているか分からず、私はふと不安を覚える。
それをごまかしながらまくし立てるように続けると、私の声ごと遮る形で、ユウはベンチからゆっくり腰を上げた。
『……分かった。ありがとう、教えてくれて』
返事の声は変わらず低かった。あ、と声を零した私は、そのときになってユウがほとんど喋っていないことに気づいた。
口を押さえたところで遅い。一方的に喋り続けた自分を恥じ、視線をうろうろと左右に泳がせた後、私は東屋の外に視線を定めた。
細い雨が降り続いている。午後から雨脚こそ弱まってきたものの、やむ気配はなさそうだ。天気予報を信じてもいいなら、明日も朝から雨になるだろう。しかし。
「あ……あの、ユウ」
『ごめん、少しひとりになりたい。今日は……悪いけど』
「え?」
言葉少なに語るユウが、「帰ってくれ」という意味でそれを口にしたと気づくまで、思った以上に時間がかかってしまう。
初めてだった。ユウが私を突き放したことは、過去に一度もない。私はすっかり固まって、手元の通学鞄に呆然と視線を落とすしかできなくなる。
頭を、鈍器で殴られた気分だった。
ユウが病院にいたのかもしれないことと、幽霊になっていること。このふたつの点を線で繋いだとき、ユウが病院で息を引き取った可能性に思い至らないわけにはいかない。
そういうものだと頭では分かっていた。ユウがまとうシーツに市立病院という文字を見つけたときに。あるいは、シーツの中に覗くユウの衣服が病衣に似ていると気づいたときに。
ユウが何者だったのか、真実に辿り着くための鍵は、私が思うより遥かにデリケートなものなのだ。
「……うん。じゃあ私、帰るね」
『……カナオ』
「ごめん。私、デリカシー、なかった」
『カナオ』
「また来るよ。明日も雨だと思うし、またね」
言いながら笑おうとしたけれど、頬は強張ったきりで碌に動かない。おそらくは相当に固い顔で別れを告げてしまったと自嘲し、しかしひとたび外した視線を再び彼に向け直すことは、今の私にはできそうになかった。
傘を差し、東屋を出る。振り返れなかった。ユウも、それ以上私に声をかけはしなかった。
帰路が寒々しかったのは、雨のせいばかりではきっとない。
そういえば、朝、ユウはどこに行っていたんだろう。それさえ訊きそびれてしまったなと思ったら、重い溜息が零れ落ちた。
ところが、ユウはいなかった。
傘の柄を持ち直しながら、東屋の前に立って園内を見渡したけれど、白い影は見当たらない。大事な報告があるときに限って、と歯ぎしりしてしまいそうになる。
前回、ユウに会ったときの記憶が脳裏に浮かぶ。
あの日、ユウは自分がこの公園を離れられることに気づいた。それ自体は以前から知っていたのかもしれないが、実際に私の家まで移動してみて、より明確に自覚できるようになったのだと思う。
思えば、あの日の別れ際にも『川に行く』と言っていた。きっと今のユウは、自分の行動範囲の広がりを実感している最中だ。
「……はぁ」
帰りにまた寄ろう。そのときにはいるだろうか。そう思ったら溜息が零れた。
もどかしい。私とユウのやり取りは、親しい友人とのそれとはやはり違う。花梨となら、片方が入院していてさえ連絡を取り合えるのに、ユウとは雨の日にしか会えない。もちろん、メッセージや電話のやり取りも不可能だ。
赤い傘を片手に、私は東屋の前を離れる。
病衣の件をユウに報告しなければいけないという義務的な気持ちも、確かにあった。でもなにより、やっと降った雨のおかげで彼にまた会えることを、私は純粋に楽しみにしていたのだ。もやもやした気分は、しばらく晴れそうになかった。
午前、昼、午後。うわの空で聞いた授業の内容は、碌に頭に残らなかった。
今日は木曜。花梨は今週いっぱいで退院できるそうだ。花梨のいない放課後は、ひとまず明日で区切りになる。
急ぎ足で帰路に就く。
雨脚は、五時限目の授業中に弱まり始めていた。明日も雨の予報が出ているとはいえ、一時的に雨が上がる可能性だってある。そうなると私にはユウが見えなくなるわけで、不安に駆られた私は、放課後になるや否や学校を飛び出し、児童公園までの道を小走りに通り抜けていた。
公園は間もなくだ。ユウと初めて遭遇した電柱の傍を通り過ぎた、そのときだった。
『カナオ?』
「……っ、あ」
公園を囲むように整備された垣根を隔てた場所から、くぐもった低い声がした。
『どうした、そんなに急いで』
「あ……うん。その」
『東屋。行くぞ』
きょろきょろと首を動かすユウを見て、私もはっとした。ユウが、周囲に人気がないか確認していると気づいたからだ。
ユウが周りを確認しているところを初めて見た。ユウはユウなりに、私を気遣ってくれているのかも……そう思うと、なんだか面映かった。
東屋に辿り着くと同時に、カモフラージュの教科書を通学鞄から取り出すことも忘れ、私は声を張り上げた。
「あのね、ユウ。その服、どこの病院のか分かったかも」
『……え?』
声量こそ抑えたが、煮えきらない気持ちを三日も持て余していた分、口調には興奮が滲んでしまう。対するユウは、訝しげな声をあげたきり、ベンチに腰かけようとしている格好のまま固まっていた。
「市立病院。今ね、私の友達が入院してて、こないだお見舞いに行ってきたの。そのときにその子も同じ服、着てたから」
『入院……』
呆然と呟くユウの声は、依然として低い。またもどかしくなる。
ユウがなにを考えているのか想像しようにも、表情が分からない以上、参考になる情報は声音や仕種くらいしかない。しかもその声すら、人同士の会話とは比較にならないほどくぐもっている。誰の声かなんていう判別は、とてもつかない。
「あの、病衣って似た感じのものが多いし、もしかしたら他の病院で同じの使ってる可能性もあるかなって思うんだ、でも」
沈黙するユウがなにを考えているか分からず、私はふと不安を覚える。
それをごまかしながらまくし立てるように続けると、私の声ごと遮る形で、ユウはベンチからゆっくり腰を上げた。
『……分かった。ありがとう、教えてくれて』
返事の声は変わらず低かった。あ、と声を零した私は、そのときになってユウがほとんど喋っていないことに気づいた。
口を押さえたところで遅い。一方的に喋り続けた自分を恥じ、視線をうろうろと左右に泳がせた後、私は東屋の外に視線を定めた。
細い雨が降り続いている。午後から雨脚こそ弱まってきたものの、やむ気配はなさそうだ。天気予報を信じてもいいなら、明日も朝から雨になるだろう。しかし。
「あ……あの、ユウ」
『ごめん、少しひとりになりたい。今日は……悪いけど』
「え?」
言葉少なに語るユウが、「帰ってくれ」という意味でそれを口にしたと気づくまで、思った以上に時間がかかってしまう。
初めてだった。ユウが私を突き放したことは、過去に一度もない。私はすっかり固まって、手元の通学鞄に呆然と視線を落とすしかできなくなる。
頭を、鈍器で殴られた気分だった。
ユウが病院にいたのかもしれないことと、幽霊になっていること。このふたつの点を線で繋いだとき、ユウが病院で息を引き取った可能性に思い至らないわけにはいかない。
そういうものだと頭では分かっていた。ユウがまとうシーツに市立病院という文字を見つけたときに。あるいは、シーツの中に覗くユウの衣服が病衣に似ていると気づいたときに。
ユウが何者だったのか、真実に辿り着くための鍵は、私が思うより遥かにデリケートなものなのだ。
「……うん。じゃあ私、帰るね」
『……カナオ』
「ごめん。私、デリカシー、なかった」
『カナオ』
「また来るよ。明日も雨だと思うし、またね」
言いながら笑おうとしたけれど、頬は強張ったきりで碌に動かない。おそらくは相当に固い顔で別れを告げてしまったと自嘲し、しかしひとたび外した視線を再び彼に向け直すことは、今の私にはできそうになかった。
傘を差し、東屋を出る。振り返れなかった。ユウも、それ以上私に声をかけはしなかった。
帰路が寒々しかったのは、雨のせいばかりではきっとない。
そういえば、朝、ユウはどこに行っていたんだろう。それさえ訊きそびれてしまったなと思ったら、重い溜息が零れ落ちた。