貼られた救急シールがけたたましい自走機械は、
私がなにも言わずに勝手に後をついてきた。
ひとりでタクシーに乗っても、
車道を疾走する姿には目を見張るものがある。
自宅マンションに着いてから、
エレベーターを閉め出すと
非常階段を駆け上って部屋までやってきた。
たくましいストーカー。
トイレのときは外へ押し出し、
ドア前で待機させた。
お風呂は蹴飛ばして脱衣所さえ入れさせない。
湯船に浸かりながら、これからも続く
ストーキングを繰り返す鉄塊との生活を考えて
気が重たくなった。
それから仕事のことも…。
職場の上司にはお詫びのメールに併せて、
退院の知らせと明日から復帰する旨を
簡潔に伝えた。
自走機械の発する小さな音を耳にして、
私は不安に苛まれたまま眠りについた。
――――――――――――――――――――
朝はやく出勤して、ロビーで
エレベーターを待っていると
後ろから聞き慣れたしゃがれた声がした。
「なんだぁ、こいつ。」
長身の男性が鉄塊を革靴の足先で小突いた。
「ショウさん。それ…。」
「なんだ、マコトのか。」
「はい。」
ショウ・ヒトミは私の上司。
もみあげの特徴的な男性で、
今日も扇子を持ち歩いている。
「入院したんだってな。
もう大丈夫なのか?」
「はい。ご心配をおかけしました。」
私はいつものスーツ姿で、
髪を結い上げて彼の前に立つ。
「心配なんざしてねえよ。
で、なんだったんだ?」
「はぁ、突発性の重力障害というそうで。」
「知らねぇ。なんだそりゃ…。まあいいや。
…なぁ、妊娠じゃないんだな。」
私は黙ってうなずく。
エレベーターはまだ来ない。
この時間帯はいつもこう。
「お前の後任、ハルにしたから。」
「え? 後任って!」
ロビーに私の声が響く。
ハルは今年入社したばかりの女子社員だった。
彼女は私とは違い背がとても低く、
愛嬌があるので男性人気が高い。
「ショウさんおはようございまぁす。」
甘い声音でヒールの音を響かせて、
ハルがやってきた。噂をすれば影がさす。
「おはよう…ハルさん。」
「マコトよぉ当然だろ。
新規のプロジェクト、
お前が勝手に穴開けたんだからよ。」
もっともだ。
私が上司だったら同じ対応をする。
悔しさに手を強く握りしめる。
「あ、マコトさん、いらしたんですね。
入院したんじゃないんですか?」
「突発性なんとかだろ?
それで仕事できんのかよ。」
「重力障害だそうです。わかりません。」
「しょーがいって。障害者ってこと? ヤバ。」
「病院が勝手に言ってるだけよ。」
エレベーターが来たところに、
私とショウさんとハル、それから
自走機械までも乗り込んだ。
「おい。」
「すみません。病院がどうしてもって。」
「スパイなんじゃないですか?
企業スパイ。アハハ。」
「笑えねえし。追い出せよ。
んなもんあったら仕事になんねぇだろうが。」
ショウさんの言い分は当然で、
それでも考えなしに出社した私は浅はかだった。
自走機械の重たい本体を持ち上げて
エレベーターから出そうとしたとき、
脚部が裏返り、私の身体にまとわりつく。
バランスを失った私は床に倒れてしまった。
「ちょっと! なにこれ?」
「タコみたい。」
「おいおい。マコト。
他にも乗客いんだぞ、迷惑かけんな。」
「すみません。」
私の置かれた状況など気にもとめず、
自走機械は突然、警報音を鳴らした。
「黙らせろっ!」
「わかりませんよ、こんなの…。」
「ビョーキなんじゃないですかぁ? ヤッバ。」
「それ捨ててくるまで会社くんな!」
「さよなら、せんぱぁい。」
エレベーターを締め出された。
ロビーには私と自走機械が取り残された。
警報音は止まっている。
こいつのせいで。
ムカついて思いっきり横っ腹を蹴倒した。
――――――――――――――――――――
自宅には帰らなかった。
自走機械をどこかに捨てようと思ったけど、
捨てられる場所に心当たりなんてなかった。
不法投棄にもなるし。
私が向かった先は、ショウさんの自宅だった。
小さなマンションの一室。
自宅と呼ぶより、巣と呼んだ方がいい。
彼にとっては愛の巣であり、
私にとってのクモの巣。
廊下の扉の前で座って彼が帰ってくるのを待った。
胸元からペンダントのリングを取り出してつまむ。
私は彼と交際していた。
けれど彼は家庭を持っている。お子さんもいる。
私はただの愛人に過ぎない。
発病した日、私は彼に捨てられた。
離婚をチラつかせる彼と逢瀬を重ね、
私は結婚を期待したバカな獲物だった。
今年に入って会う日数は減った。
ショウさんは後輩のハルに乗り換え、
離婚を待ち続けた私を捨てた。
それでもここで彼を待つ自分のバカさ加減。
思考停止した私は乾いた笑いがこみ上げる。
リングから覗くくもり空が、
私の心模様を表しているように思えた。
どれほど待ったか、日が暮れて雨が降ってきた。
廊下に雨粒が落ちてくる。
髪に落ちる水がわずらわしい。
私は顔を上げて、廊下から外を眺めた。
すると小粒の雨が、私の顔に向かって
吸い寄せられるように落ちてきた。
「え? なに? ちょっと!」
おかしな雨の流れに、
カバンから急いで折りたたみ傘を取り出した。
けれど傘から落ちた雨粒が、
私の身体にまとわりつく。
タイツに満遍なく水が染み込み、
スーツが水を吸い込んで身体が重たい。
それから顔に雨水が張り付いて取れない。
思い出した。
あの医者、ミカって子の言っていたこと。
雨水はじわじわと私を包み込み水の膜を形成する。
呼吸と一緒に鼻や口の中に入り込む水を、
吐き出してもまた身体に張り付く悪循環。
大量の雨水が私を襲う。
助けを呼ぼうにも溺れて声が出ない。
水の向こうで自走機械が警報音を発する。
シュウさん! 助けて…。
目の前が暗くなる。今度こそ溺れ死ぬ。
その直前、ぼやけた視界の先に誰かが現れた。
「おや、ギリギリセーフだねぇ。」
病院で会った全身オレンジ色をしたミカだった。
オレンジ頭に厚底靴。
目を見開いて苦しむ私の前に、
自走機械の背面を開けた。
なにしてるの?
取り出したのは黄色の、長い筒状の物体。
それの先はゴム状になっていて、
口元に当てると伸びた吸気口で呼吸ができる。
手で形を探ると、それはシュノーケルだった。
唾とも雨水とも呼べるものを吐き出して、
身体に欠乏した酸素を取り戻す。
ミカはといえば、
自走機械を撫でて私の様子を眺めていた。
「医者呼ぼっか?」
あんたも医者でしょ…。
酸素をムダにしたくないから、
雨水に包まれたまま睨んだ。
「身体は大丈夫そうだね。」
ミカは私を置いて階段を降りていく。
ちょっと待って!
シュノーケルをしたままでは全然喋れない。
足元に張り付いたカバンと傘を引きずって
彼女を追いかけた。
「乗る?」
マンションの前に停めていた自動車の扉を開けた。
ミカの体格に似合わない大きなオレンジ色の
SUV(スポーツ・ユーティリティ・ヴィークル)。
「もしもしー? うん、大丈夫だった。
いまから帰るよ。」
彼女は誰かと通話したが、
なにやら報告だけしてすぐに切った。
雨水に体温を奪われて寒い。
いつになったらこの症状が収まるのか、
彼女は必ず慢性化すると言っていたが、
そうするとずっとこのままかもしれない。
私は後部座席で雨水に包まれたまま
身体を震わせた。
「なに? おしっこ?」
違う!
「もうちょっとしたら着くから我慢してね。
お漏らしされても分かんないけど。」
「うううっ!」
首を横に振っても彼女は気づいていない。
勘違いされたままのが恥ずかしかった。
私がなにも言わずに勝手に後をついてきた。
ひとりでタクシーに乗っても、
車道を疾走する姿には目を見張るものがある。
自宅マンションに着いてから、
エレベーターを閉め出すと
非常階段を駆け上って部屋までやってきた。
たくましいストーカー。
トイレのときは外へ押し出し、
ドア前で待機させた。
お風呂は蹴飛ばして脱衣所さえ入れさせない。
湯船に浸かりながら、これからも続く
ストーキングを繰り返す鉄塊との生活を考えて
気が重たくなった。
それから仕事のことも…。
職場の上司にはお詫びのメールに併せて、
退院の知らせと明日から復帰する旨を
簡潔に伝えた。
自走機械の発する小さな音を耳にして、
私は不安に苛まれたまま眠りについた。
――――――――――――――――――――
朝はやく出勤して、ロビーで
エレベーターを待っていると
後ろから聞き慣れたしゃがれた声がした。
「なんだぁ、こいつ。」
長身の男性が鉄塊を革靴の足先で小突いた。
「ショウさん。それ…。」
「なんだ、マコトのか。」
「はい。」
ショウ・ヒトミは私の上司。
もみあげの特徴的な男性で、
今日も扇子を持ち歩いている。
「入院したんだってな。
もう大丈夫なのか?」
「はい。ご心配をおかけしました。」
私はいつものスーツ姿で、
髪を結い上げて彼の前に立つ。
「心配なんざしてねえよ。
で、なんだったんだ?」
「はぁ、突発性の重力障害というそうで。」
「知らねぇ。なんだそりゃ…。まあいいや。
…なぁ、妊娠じゃないんだな。」
私は黙ってうなずく。
エレベーターはまだ来ない。
この時間帯はいつもこう。
「お前の後任、ハルにしたから。」
「え? 後任って!」
ロビーに私の声が響く。
ハルは今年入社したばかりの女子社員だった。
彼女は私とは違い背がとても低く、
愛嬌があるので男性人気が高い。
「ショウさんおはようございまぁす。」
甘い声音でヒールの音を響かせて、
ハルがやってきた。噂をすれば影がさす。
「おはよう…ハルさん。」
「マコトよぉ当然だろ。
新規のプロジェクト、
お前が勝手に穴開けたんだからよ。」
もっともだ。
私が上司だったら同じ対応をする。
悔しさに手を強く握りしめる。
「あ、マコトさん、いらしたんですね。
入院したんじゃないんですか?」
「突発性なんとかだろ?
それで仕事できんのかよ。」
「重力障害だそうです。わかりません。」
「しょーがいって。障害者ってこと? ヤバ。」
「病院が勝手に言ってるだけよ。」
エレベーターが来たところに、
私とショウさんとハル、それから
自走機械までも乗り込んだ。
「おい。」
「すみません。病院がどうしてもって。」
「スパイなんじゃないですか?
企業スパイ。アハハ。」
「笑えねえし。追い出せよ。
んなもんあったら仕事になんねぇだろうが。」
ショウさんの言い分は当然で、
それでも考えなしに出社した私は浅はかだった。
自走機械の重たい本体を持ち上げて
エレベーターから出そうとしたとき、
脚部が裏返り、私の身体にまとわりつく。
バランスを失った私は床に倒れてしまった。
「ちょっと! なにこれ?」
「タコみたい。」
「おいおい。マコト。
他にも乗客いんだぞ、迷惑かけんな。」
「すみません。」
私の置かれた状況など気にもとめず、
自走機械は突然、警報音を鳴らした。
「黙らせろっ!」
「わかりませんよ、こんなの…。」
「ビョーキなんじゃないですかぁ? ヤッバ。」
「それ捨ててくるまで会社くんな!」
「さよなら、せんぱぁい。」
エレベーターを締め出された。
ロビーには私と自走機械が取り残された。
警報音は止まっている。
こいつのせいで。
ムカついて思いっきり横っ腹を蹴倒した。
――――――――――――――――――――
自宅には帰らなかった。
自走機械をどこかに捨てようと思ったけど、
捨てられる場所に心当たりなんてなかった。
不法投棄にもなるし。
私が向かった先は、ショウさんの自宅だった。
小さなマンションの一室。
自宅と呼ぶより、巣と呼んだ方がいい。
彼にとっては愛の巣であり、
私にとってのクモの巣。
廊下の扉の前で座って彼が帰ってくるのを待った。
胸元からペンダントのリングを取り出してつまむ。
私は彼と交際していた。
けれど彼は家庭を持っている。お子さんもいる。
私はただの愛人に過ぎない。
発病した日、私は彼に捨てられた。
離婚をチラつかせる彼と逢瀬を重ね、
私は結婚を期待したバカな獲物だった。
今年に入って会う日数は減った。
ショウさんは後輩のハルに乗り換え、
離婚を待ち続けた私を捨てた。
それでもここで彼を待つ自分のバカさ加減。
思考停止した私は乾いた笑いがこみ上げる。
リングから覗くくもり空が、
私の心模様を表しているように思えた。
どれほど待ったか、日が暮れて雨が降ってきた。
廊下に雨粒が落ちてくる。
髪に落ちる水がわずらわしい。
私は顔を上げて、廊下から外を眺めた。
すると小粒の雨が、私の顔に向かって
吸い寄せられるように落ちてきた。
「え? なに? ちょっと!」
おかしな雨の流れに、
カバンから急いで折りたたみ傘を取り出した。
けれど傘から落ちた雨粒が、
私の身体にまとわりつく。
タイツに満遍なく水が染み込み、
スーツが水を吸い込んで身体が重たい。
それから顔に雨水が張り付いて取れない。
思い出した。
あの医者、ミカって子の言っていたこと。
雨水はじわじわと私を包み込み水の膜を形成する。
呼吸と一緒に鼻や口の中に入り込む水を、
吐き出してもまた身体に張り付く悪循環。
大量の雨水が私を襲う。
助けを呼ぼうにも溺れて声が出ない。
水の向こうで自走機械が警報音を発する。
シュウさん! 助けて…。
目の前が暗くなる。今度こそ溺れ死ぬ。
その直前、ぼやけた視界の先に誰かが現れた。
「おや、ギリギリセーフだねぇ。」
病院で会った全身オレンジ色をしたミカだった。
オレンジ頭に厚底靴。
目を見開いて苦しむ私の前に、
自走機械の背面を開けた。
なにしてるの?
取り出したのは黄色の、長い筒状の物体。
それの先はゴム状になっていて、
口元に当てると伸びた吸気口で呼吸ができる。
手で形を探ると、それはシュノーケルだった。
唾とも雨水とも呼べるものを吐き出して、
身体に欠乏した酸素を取り戻す。
ミカはといえば、
自走機械を撫でて私の様子を眺めていた。
「医者呼ぼっか?」
あんたも医者でしょ…。
酸素をムダにしたくないから、
雨水に包まれたまま睨んだ。
「身体は大丈夫そうだね。」
ミカは私を置いて階段を降りていく。
ちょっと待って!
シュノーケルをしたままでは全然喋れない。
足元に張り付いたカバンと傘を引きずって
彼女を追いかけた。
「乗る?」
マンションの前に停めていた自動車の扉を開けた。
ミカの体格に似合わない大きなオレンジ色の
SUV(スポーツ・ユーティリティ・ヴィークル)。
「もしもしー? うん、大丈夫だった。
いまから帰るよ。」
彼女は誰かと通話したが、
なにやら報告だけしてすぐに切った。
雨水に体温を奪われて寒い。
いつになったらこの症状が収まるのか、
彼女は必ず慢性化すると言っていたが、
そうするとずっとこのままかもしれない。
私は後部座席で雨水に包まれたまま
身体を震わせた。
「なに? おしっこ?」
違う!
「もうちょっとしたら着くから我慢してね。
お漏らしされても分かんないけど。」
「うううっ!」
首を横に振っても彼女は気づいていない。
勘違いされたままのが恥ずかしかった。