俺が駅東公園にたどり着くと、そこには数人のやじ馬と、計六人もの警察がいた。

 警察は四人の男を取り囲んで事情聴取? とやらを行っているみたいだ。四人のうちの三人はいかにも不良って感じで、残りの一人はあの愛実と抱き合っていた男だった。

 しかもそいつだけ、顔がぼこぼこ。

「……いない、ここじゃないのか」

 しかし、愛実もゆちあもいなかった。

 ここじゃないとしたら、どこだ?

 膝に手をついて、一度呼吸を整えようとしたその時。

 愛実と抱き合っていた男が、すっとこちらに顔を向けた。

 ――二人はあっちに行ったぞ。

 唇の動きだけで判断したから、読唇術なんか知らないから、それは希望的観測による解釈だったかもしれない。

 俺の敵とも言うべき人間の言葉なので、嘘だと考えるのが自然だったかもしれない。

 でも、俺はその言葉を信じていた。

 だって俺にそれを伝えてくれた彼の顔は、つきものが落ちたみたいに穏やかだったから。

 あの日、願いの灯の前で見た、オリオンレッドの真似をする子供の笑顔によく似ていたから。

 ――バカにしてごめん。

 俺は、また走る。

 公園を駆け抜けて、新しく建てられたタワーマンションの前を通り過ぎる。バス停の前に置かれてあるベンチに、愛実とゆちあが座っているのをようやく見つけた。金髪だから夜でもよく目立つ。

 なんだ、金髪、結構似合ってるじゃん。

 意外な一面って感じ?

「愛実! ゆちあ!」

 走りながら叫ぶと、肺がうまく収縮できなかったのか、ものすごく苦しくなった。

 ずっと走り続けていたことによる疲労が、両足の筋肉に一気に襲いかかる。

「あ! おとーさん!」

 俺の声が届いたらしく、ゆちあがすっと顔を上げ、俺の方を指さした。

「えっ?」

 そのゆちあの声に反応して愛実が顔を上げ――遠目からでも肩がびくりと跳ねたのが確認できた。

「愛実! ゆちあ!」

 走りながらまた叫ぶと、愛実がすっと立ち上がった。ゆちあの手を握りしめ、抵抗するゆちあを強引に引っ張って逃げようとする。

「え? おかーさん? ……やだっ!」

 ゆちあの悲しげな声がここまで届く。

「ゆちあお願い! ここにいちゃダメなの!」

 愛実のそんな叫び声も耳に届いた。

「やだ! なんで! おとーさんだよ」

「いいからおかーさんと一緒に来て!」

「やだやだ!」

 ゆちあは首を横に振り続ける。

「おとーさん!」

 そして、俺に向けて必死に右手を伸ばす。歯を食いしばって、眉間にしわを寄せて、全身全霊で愛実に抵抗していた。

「ゆちあっ、愛美っ」

 伸ばされたゆちあの小さな手のひら向けて、俺も手を伸ばす。

 もう俺は、逃げないって決めたから!

「待ってくれよ!」

 ようやく俺の手が、ゆちあの小さな手に触れた。

 すぐにがっちりと握りしめる。

「おとーさん!」

 ゆちあもぎゅっと握り返してくれた。その必死な顔を今度はおかーさんに向けて、声を張り上げる。

「おかーさん逃げないでっ!」

「……ゆちあ」

 ゆちあの想いが伝わったのか、愛実は体の動きを止めた。

「はぁ、はぁ……よかった」 

 ひとまず安堵し、両膝に手をついて呼吸を整え……ている暇はない。

 体中が酸素不足を訴えているが、休憩している暇など俺にはないのだ。

「おとーさん、あのね」

 不安そうなゆちあが俺を見上げていることに気づき、なんとか笑顔を浮かべた。

「ん? どうした?」

「さっきはごめんなさい。ゆちあ、おとーさんにひどいこと言った」

 ゆちあはぺこりと頭を下げた。

「本当はね、ゆちあ、おとーさんのこと大好きだから、離れたくない。一緒にいたい」

 きちんと謝れるなんて、やはりゆちあは優しい子だ。

 俺だって、ゆちあにひどいことを言ったのに。

 先に謝られるなんて、大人として、おとーさんとして、本当に情けない。

「おとーさんも、ごめんな」

 俺はゆちあの頭をわしゃわしゃとなでてやる。

「ゆちあを不安にさせた。ゆちあの大切なおかーさんにひどいこと言った」

「いいよ。ゆちあ許してあげる。だってこうして来てくれたもん!」

 ね、おかーさん! とゆちあが愛実の顔を見上げる。

 愛実はまだ表情に悲壮を滲ませていた。

「どう、して? なんで来たの?」

 責めるような声で言われ、胸が痛む。

 愛実にそんな顔をさせていることが、心底腹立たしかった。

「どうしてって、そんなの」

「私がそばにいるとあなたを傷つける」

 肩を小刻みに上下させながら、ゆっくりと後ずさっていく愛実。

「そういうのは、私だけ救われようとするのは、もう嫌なの」

 彼女は激しく首を振りながら、喉から声を絞り出している。

「だから私は――」

 突然愛実の言葉が止まった。

 目をぱちくりと見開いて、顔だけで後ろを振り返る。

「ゆち、あ」

 愛実の後ろに回り込んだゆちあが、愛実の足に後ろから抱きついて、その足を動かせないようにロックしていた。

「ダメだよ。おかーさん」

 その行動を見るだけで、ゆちあの思いはすぐに伝わった。

 俺と同じだった。

 ゆちあ、ありがとう。

 そう心の中でつぶやき、俺は一歩踏み出す。

「え? ……え? ちょっとゆちあ」

 愛実は顔をせわしなく動かし、前にいる俺と後ろにいるゆちあを交互に見る。

「智仁も……、だって私は」

 動揺する愛実にもう一歩だけ近づくと、俺は愛実の体をそっと抱き寄せた。

 愛実がどこにもいけないように前から愛実をロックする。

「今まで、悪かった」

 愛実の体が、びくりと波打つのが直に伝わってきた。

 彼女の体はまだ震えている。

 だからこそ、言葉の限りを尽くして、その震えを取り去ろうと決意した。

「俺は今まで自分のことしか考えてなかった。全部自分の都合のいいように解釈してたんだ」

 愛実が俺から離れようとして、俺の胸を両の手のひらで押している。

 そんなことをされたって、死んでも離すもんか。

 愛実の後ろでは、しっかりとゆちあが足をロックし続けてくれている。

「全部言いわけだったんだ。ずっと、今まで、事実に向き合うのが怖かった」

 俺は大きく息を吸った。

 小さく頷き、俺の心を支配し続けていた本心を、なんのフィルターも通さず言葉にする。

「ただただ好きだったんだよ。ずっと。愛実のことが」

 もっと緊張すると思っていた。

 喉元で言葉が詰まるかと思っていた。

「俺は愛実のことが、大好きだったんだ」

 愛実の体の震えが止まるまで、俺は本当の気持ちを伝え続ける。

「俺が愛実のことを一生守るから」

 胸に感じていた圧力がふっと消える。

 愛実の腕が俺の背中に巻きついていくのがわかった。

「俺に愛実のすべてを背負わせてくれ」

 どく、どく、という愛実の心臓の鼓動をしっかり感じ取れる。

 そのリズムが、俺の心臓の鼓動と重なっていく。

 すごく心地よい。

 いつまでも味わっていたいと思える大切な感覚だ。

「俺はずっと過去に生きてきた。命を救われたから、すごい人間になるのが義務だって思って。でも俺じゃすごい人間になれなくて、自暴自棄になって、色んなことから逃げだした。愛実を傷つけ続けた」

 本当に情けないと思う。

 過去に戻れるならやり直したい。

 そんなことはできないのだから、きちんと過去と向き合わなければいけない。

「俺、ようやくわかったんだ。俺は愛実とゆちあと一緒に人生を歩みたいんだって。未来を生きたいんだって。二人のことをこの手で守れるような、すごい人になりたいんだって」

 そこでひとつ、息を吐く。

 俺の心からの願いを一かけらの取りこぼしもなく伝えるために、顔を愛実の耳元に近づけた。

「遅くなってごめん。俺とつき合って下さい」

 胸のあたりが異様に熱くなる。

 俺は己のすべてをかけて、ずっと伝えられていなかった言葉をきちんと伝えた。

「……遅いよ」

 愛実の耳が赤くなる。

「私は、子どもの時からずっとつき合ってると思ってたよ」

「いやでも、なぁなぁで、ちゃんと言葉にしてなかったから」

「ほんとどれだけ待たせるの? バカ」

 愛実の柔らかな声が、俺の鼓膜を優しく揺らす。

 ゆっくりと顔を上げた愛実は、白い歯をのぞかせながら、大粒の涙を流していた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 頬をほんのりと赤く染めた愛実の笑顔を、俺は網膜に焼きつける。

 この笑顔以上の、最高の笑顔を引き出したい。

 もっと幸せになりたい。

 もっと大切にしたい。

 俺の全てがそう訴えかけていた。

「俺、愛実が離れたがっても、ぜってぇ離さねぇから」

「私も、離れてあげない。ようやく捕まえたんだから」

 それから俺たちは、額をくっつけ合って、鼻先をくっつけ合って、そして――。