衝撃を、受けた。
 世間的な基準は分からないが、恋とはなんなのかすら知らない田舎の中学二年坊主が受ける衝撃としては、最大級のディープ・インパクトだった。
十四歳、女子というものはどうやら違う生命体のようだと気付く多感なお年頃。あくまで持論に過ぎないが、そんな多感なお年頃に受ける衝撃というのは、後の人格形成において、非常に大きな意味を持つのだと信じている。
これは、そんな夏の小さな冒険談だ。


 スティンクレス・ジョーと名乗るその男が姿を消し、再び現れたのは夏休みが始まる一週間ほど前のことだった。

 期末試験も終わり、授業もない。「受験はもう始まっている」と先生方はおっしゃるが、この時期の僕らにとってはそんな助言は奇妙な咆哮と大差はない。ついこの間まで行われていた期末試験ですら記憶の彼方に消えてしまった僕らのお粗末な脳みそを占めているのは、人生で一回しかない「中学二年の夏休み」を、いかに謳歌するか、ということだけだった。
 そんな折、スティンクレス・ジョーから受けた衝撃は、夏休みを目前に控え、脳内お花畑で日向ぼっこ満喫中のアホどもの心を鷲掴みするには十分だった。
 スティンクレス・ジョーというのは、僕らが通う中学の近くに住居を構えるホームレスである。年齢は五十歳くらいに見えるのだが、話す言葉は今時の渋谷風なので、実際のところは分からない。白髪交じりの長い毛を三つ編みにし、更に頭頂部の毛を編み込んで前に垂らしている。長く伸びたヒゲもやはり三つ編みで、前から見ると上下左右の四方向に三つ編みが伸びている。三つ編みへの並々ならぬ愛情とこだわりが感じられる、なんとも素敵なヘアスタイルだ。
 季節に関係なく着ているダウン・ジャケットは、茶色と黄色のまだら模様だが、おそらく元の色ではないだろう。
 ペンキで色とりどりに塗られた段ボールハウスの横には、カセットコンロや食器類が入ったプラスチック製の大きなケースと、おしゃれセットが入っているといわれる段ボール箱、ハンガーがぎっしり詰まった一斗缶が置かれている。もちろん用途は不明だ。

 「ジョーと呼んでくれて、いいんだぜ」

 誰かれ構わずそう声をかけるジョーは、当然のごとく女子生徒たちからは避けられ、教師たちから危険視され、PTA会長から敵意を向けられていたのだが、危害を加えることはないと知っている僕たち男子生徒たちからは奇妙な人気があった。
 僕らが話しかけると、いつも嬉しそうに若い頃の話をしてくれた。オーストラリアでカンガルーと闘ったり、中国の河原で酔拳の達人に弟子入りしたりと、花咲く青春を謳歌していたのだそうだ。
 夏休み初日、僕は岡本と一緒にジョーさんの様子を見に行った。岡本は幼稚園からの中学二年の今までずっと同じクラスなので、自然といつも一緒にいるようになった親友だ。

 「ジョーさん」

 僕が呼びかけると、彼はびくりと体をはねさせ、ゆっくりとこちらを向いた。その眼は血走っており、僅かだが潤んでいるようにも見える。僕が少し体を動かすと、彼は怯えるように素早い動きで遠のいた。
 彼が消えたのは、期末試験が始まる三日くらい前だったように思う。期末試験をどう乗り切るかで頭がいっぱいだった僕たちは、彼が消えたことなど、誰一人気付いていなかった。
 誰かがジョーさんがいないことに気付き、違う誰かが戻ってきていることに気付き、一週間。すでに元気なジョーさんではなかった。同じ姿だが、まるで別人の誰かがジョーさんにすり替わったかのようだ。もちろん、好きこのんで入れ替わる人などいないので、ジョーさん本人には間違いないのだが、それにしてもこの変わりようはなんだ。明らかに様子が変だった。もちろん、前から変だったのだが、また違った意味で変なのだ。ジョーさんらしくない。

 「大丈夫っすか。ジョーさん、なんか変っすよ。あ、言い方悪いっすね。いつもより、変っすよ、なんか」

 岡本が失礼なことを言ったが、ジョーさんは特に反応するでもなく、黙ってこちらを見ている。

 「よかったら、話聞くだけ聞きますよ。なんか笑えるかもしれへんし」

 これで友人が多いのだから、世の中不思議である。
 するとジョーさんが、恐る恐るといった感じで、口を開いた。

 「宇宙人が、俺を、迎えに来たんだぜ」

 僕は何と言えばいいのか分からなかったが、岡本は平然としている。

 「へえ、それは凄いやないですか。白馬の王子様みたいなもんすか」
 「俺、舞踏会以外は行かないスタンスでやってるんだけどもよ、なんか無理やり・・・・・・」
 「盆踊りっすか」
 「ぼちぼち正解・・・・・・」
 「で、ちょっと連行されてもうたと」
 「連行っていうか、お持ち帰り?」
 「宇宙人のアパートっすか」

 しばらく黙っていたジョーさんは、思い切ったように口を開いた。

 「吉野・・・・・・。奈良南部・・・・・・。なんなんだよもう、アレ絶対金星人・・・・・・」

 ジョーさんはその日、いつものように心斎橋周辺をパトロールしていると、いきなりズボンのお尻を引っ張られ、なんだかよく分からないうちに上空に持ち上げられたらしい。強い光で目がくらんでしまい、何が起きたのか分からなかったようだが、気付いた時には病院の待合室のような場所に寝転がっていたのだという。宇宙人に浚われたのだと、すぐに悟ったらしい。
 ジョーさんがびっくりしていると、目の前にある巨大モニターに山の映像が映し出され、ナビゲーター担当と思われる宇宙人が説明を始めた。バリトンヴォイスが心地よかったという。

 「そいつが言うにはさ、俺に、お前吉野で河童になれ、って言うわけなのよ」

 ジョーさんはそれだけ言うと、僕らに背を向けてしまい、「困っちゃうんだぜ」と呟いた。

 「で、どうでした、河童。なっちゃったんすか」

 岡本が聞いたが、ジョーさんは心ここにあらずといった感じで、「困っちゃうんだぜ、困っちゃうんだぜ」と連呼していた。もう話せる状態ではないようだった。


 中学校の図書室に行くと、二十人くらいが勉強をしていた。ほとんどが高校受験を控えた三年生だが、中には真面目な一年生と二年生もいる。
 探していた人物はすぐに見つかった。

 「おお、おそろいで」

 岡本が声をかけると、問題集を解いていた西田が顔を上げた。

 「岡本か。宿題はもう終わったんか?」
 「まだに決まってるやないか」
 「そうやろなあ」

 西田は彫の深いハンサムな顔立ちで相当得をしているのだが、実はただの変態だ。去年、つまらないイタズラが原因で担任の教師にとび膝蹴りをくらい、その事が体罰なのではないかと問題になったが、蹴りをくらった西田は光悦の表情を浮かべて身もだえしていた。その先生が若くてきれいな女性教員だったからに違いない。

 「おい、西田」

 西田の横でせっせと問題集を解いている真木が声をかけた。

 「お前、そんなんじゃまた宿題終わらへん言うて、八月末にえらい目にあうで」
 「すんませーん」

 西田はまた問題集に目を落とした。
 真木は僕ら仲良しグループの良心ともいえる男で、彼がいなければ僕らは歯止めのきかない変態集団になってしまう。もちろん、主な原因は西田と岡本だ。

 「まあ、真木も聞け。大事なことや。さっき、ジョーさんと話しててんけど、ジョーさん、なんか最近変やろう?なんっちゅうか、男の誇りみたいなもんを感じひん」

 僕はそんなものを感じたことはないのだが、黙っていることにした。

 「でな、原因が分かったんや」

 西田と真木が手を止めて顔を上げた。やはり、真木も少しは気になっているのだ。

 「ジョーさんな、宇宙人にお持ち帰りされて、吉野で河童になっとったらしいで」
 「そうか」

 そう言うと、西田は問題集と筆記用具を片づけ始めた。

 「おい、まだ終わってへんぞ」

 真木が言うと、西田はひっそりとした声で答えた。

 「あの、俺、ちょっと吉野行かなきゃだから」


吉 野は、僕らが住んでいる町から電車で二時間くらいだ。春になると山一面ピンク色になるくらい桜が生えていて、花見シーズンともなると、山が人で埋まってしまう。もちろん、桜以外の自然もキレイで、僕は何度か父親に連れられて渓流釣りに来たことがある。
僕 らが吉野に到着したのは、朝七時半過ぎだった。西田は図書館から出たあと、その足で吉野に向かおうとしたのだが、冷静な真木に止められ、次の日の始発で吉野に向かうことにしたのだ。

 「河童―!」

 電車から降りるなり西田が叫んだ。近くにいた親子連れがびっくりしてこちらを見たが、何も言わずにどこかに行ってしまった。

 「おい、村田!」

 岡本が大きな声で僕を呼んだ。

 「俺ら、ちょっと虫網買ってくるわ」
 「何に使うねん」
 「何て、河童捕まえんねやないか」

 すると、先ほど大声で河童と叫んだ西田が、振り向いて言った。

 「河童はジョーさんやろ?河童捕まえるんやったら、ジョーさんのところ戻らなあかん」
 「ほんなら、何捕まえるんや」

 岡本が言うと、西田は満面の笑みで応えた。

 「宇宙人や!」

 真木が無表情で二人を見つめていた。
 こうしていても始まらないと、僕らは山へ入ることにした。山といっても、人気の散策スポットだから、トレッキングシューズを履いたご老人がたくさんいる。宇宙人を捕まえにきた僕たちは、山歩きに来た健康優良少年四人組に見えるだろう。
 普段は僕らのブレーンを務める真木はどうやら傍観者に徹しているようで、僕らは何をしていいのか分からず、僕が昔父親に連れていってもらった渓流に行くことにした。はっきりと場所を覚えているわけではないが、宇宙人や河童がどこに出現するのかは分からないのだから、適当でいいに違いない。
 僕らはジョーさんが河童として過ごしたのはここらへんだという事にして、それらしいものを探すことにした。水も綺麗だし、ちょうどいい。

 「なんかこういう映画あったなあ」

 岡本が言った。

 「ああ、四人で汽車に轢かれた死体探すヤツな」

 そう言うと、西田はその映画の主題歌を歌いだした。楽しくなってきたのか、真木も小さい声で口ずさんでいた。
 川辺をうろついていたが、何を探していいか分からず、何を探しているのかも分からず、そもそも何かを探しているのかどうかも分からず、僕らは歩き回った。大事なのは、こうして夏休みの思い出を作ることなのだと真木が言うと、僕ら三人は「おおー」と歓声を上げ、拍手をした。
 あたりも暗くなった。一応親には泊まってくるとは伝えていたので、僕らはここでキャンプをすることにした。誰かの家か旅館に泊まっていると思っている親は、キャンプをしていたなどと言うと怒るかもしれないが、あの映画の主題歌を歌ってしまった僕らには、「キャンプをしない」という選択肢などなかった。
 キャンプファイヤーを始めた僕らは語り合った。中学二年における正しい青春とは何か。女子なる生き物はどういった生命体なのか、我ら男子の理解の範疇に収まるものなのか、その対策は。受験生になっても、高校生になっても、きっと夏休みは特別なものに違いない。そして、その青春を謳歌する上で“女子”なる存在は、最も大切なものに違いない。
 そんな話をしていると、後ろの茂みがガサガサと音を立てた。僕らは驚いて音が鳴った方向に目をやったが、あたりは暗くて何も見えない。しかし、かろうじて人影が見える。どうやら誰かいるようだ。僕らはドキドキした。僕らの理解の範疇には収まらない“女子”なる存在があるのと同様、“不良”という、理解の範疇に収めたくないものも存在することを知っていたので、僕らはそやつらが襲ってくるのではないかと、ドキドキしていた。
 その影が、いきなり茂みから顔を出して、言った。

 「ここ、なんだか、明るいんだぜ」

 こういう時に冷静なのは岡本である。僕は驚いてしまって咄嗟に何も言えなかったが、岡本は実に冷静に言った。

 「また、お持ち帰りされちゃったんすか?」

 しかし、ジョーさんは聞いていないようだ。

 「キューリ」
 「はい?」
 「キューリどこ、キューリ」
 「タワシじゃだめ?」
 「ギリギリだめ」
 「こいつは?」

 そう言って岡本が真木の肩を持って揺すると、ジョーさんはへらっと笑って「いいかも」と言った。

 「ジョーさん、今河童なんすか」

 西田が聞くと、ジョーさんは「分かんない」と言った。

 「分かんないんだぜ。河童なのかな。ぬらりひょんかも。いや、やっぱ、河童なんだぜ、俺って」

 ジョーさんは何故か濡れていた。いや、河童なのだから体が濡れているのも当然かもしれないが、縮こまってキャンプファイヤーにあたる姿は、河童よりもサトリを連想させた。

 「俺、また会っちまったんだよ」
 「宇宙人に?」
 「ゴールデン・チャイルド」
 「誰それ?」

 真木が聞いたが、ジョーさんは答えず、「あっち」と茂みの方を指さした。
 僕らはいっせいにジョーさんが指さした方向を見た。宇宙人だかゴールデン・チャイルドだかが、そこにいるらしい。僕らがいっせいに立ち上がると、ジョーさんが大きな声で叫んだ。

 「気をつけろー!河童にされるぞー!河童にされたら、河童になるんだぞー!」

 僕たちは恐怖に慄いた。まだ河童になってもいい年頃ではない。
 岡本が、ジョーさんの方を振り返って言った。

 「ジョーさん。ひとつ聞くけど、ゴールデン・チャイルドって、女子?」
 「男子」

 ジョーさんが答えると、一同から深いため息が漏れた。ジョーさんは、相変わらずキャンプファイヤーに顔を向けて縮こまっていた。火にかざしたミンチ肉が、いい匂いを放っていた。


僕 らは結局、宇宙人だかゴールデン・チャイルドだかを見に行かなかった。河童になりたくないことよりも、ジョーさんみたいな大人になりたくなかった。
 だが、そこに何もいないという考えはなぜか思い浮かばなかった。行けば、僕らはきっと宇宙人だかゴールデン・チャイルドだかに遭遇したような気がする。行けば、一生に一度しかない中学二年の夏に、とてつもないものを見ることになっただろう。しかし、それでよかったのだ。知らないまま思い出の中にしまい込むのも、二度と帰らない青春時代には必要なのだと、いつだったか真木が言っていた。老けた中学生だ。
 二学期が始まると、ジョーさんがまた消えていた。すぐに帰ってくるだろうと思ったが、三学期になり、僕らが受験生になっても彼が帰ってくることはなかった。女子生徒たちが喜び、教師たちが安心し、PTA会長が新たなクレーム先を探しはじめたが、男子生徒たちは寂しがった。生徒会を利用して探そうと言うと、女子生徒たちから全力で叱られた。  
 結局、吉野で見たのがジョーさんの最後の姿だった。またいつか会えるといいが。


 「なあ、村田」

 真木がビールジョッキを掲げて言った。公務員らしいお堅いスーツを着て、仕事も終わったというのにネネクタイを綺麗に結んでいる。

 「もしあの時、茂みの奥まで行ったら、何かに会えたんかな」
 「ゴールデン・チャイルドやろう?」

 岡本が横から言った。無精ひげを生やしている。肌が弱すぎて髭が剃れないらしい。
 四人だけの同窓会というのも寂しいが、仕方ない。この四人で集まることに意味があるのだ。
 四人のガキんちょが、一泊二日で吉野に遊びにいったというだけの話だ。特別なことなど何もなかった。汽車に轢かれた死体はもちろん、河童も宇宙人もゴールデン・チャイルドも見つけることはできなかった。だが、十四歳という多感な時期に仲のいい友達とキャンプしたということに意味があったのだろう。特別なことなど、なくていい。十四歳という年齢を生きること自体が特別なのだ。

 「やっぱそうやろなぁ」

 嬉しそうに西田が言う。

 「そういやジョーさん、なんで消えてしもうたんやろうな」
 「キューリあげへんかったからやろう」

 ビールを飲みほした僕と岡本が追加ビールを頼むと、近くにいたウェイトレスが元気に「はーい」と言った。「追加ビール、おふたついただきましたー!」
 続いて店中のスタッフたちが「ありがとうございます!」と唱和する。元気な店だ。
 すると、おそらく店長だろう。大きな声が響いた。

 「了解なんだぜ。ビールふたつ、いただいたんだぜ」

 僕たちは目を見開き、顔を見合わせて笑った。




 終わり