「ここ、計算間違ってる」

 聞こえてきたのは、愛しい人の声。
 月守(つきもり)風香(ふうか)の記憶だ。

 押し寄せてくる過去の波。
 さすがに、もう慣れてきた。

 季節は夏。場所は……教室のようだ。
 
 数学が苦手な私が、シロちゃんに教えてほしいと頼んで、二人で勉強しているところだった。

 わたしとシロちゃん以外は、誰もいなかった。
 目の前には数式の書かれたノートと、シャーペンを握る自分の右手。

「あ、ほんとだ。ありがと」

 消しゴムで間違った箇所を消し、新しく正しい数式を書き込んだ。

 人生もそんなふうにやり直しができたらいいのに。

 それができないから、慎重になる。慎重になって、好きな人に好きな気持ちを伝えるのをためらってしまう。

 やり直しができたら、もっと積極的になれるのに。でも、やり直しができる世界での〝好き〟よりも、やり直しができないこの世界の〝好き〟の方が、価値がある気がする。

 やり直しができないからこそ、人は〝好き〟を大切にするのだろう。

 そんな、らしくないことを思った。

 ふと、目の前にいる好きな人を見る。

 先の丸くなった鉛筆で、複雑な数式をすらすら展開させていく。

「相変わらず、鉛筆使ってるんだね」

 鉛筆によって綴られる彼の数字や文字は、シャーペンを使っているわたしのものよりも数段太い。しかし、綺麗に並べられているためか、読みづらさはない。

「まあね」

 視線はノートに落としたまま、シロちゃんは答える。

 二人きりの放課後の教室は、普段の様子からは想像もつかないくらいに静かで、別の場所みたいに感じる。