一、『雨の祇園に咲く花は』


あなたの優しい言葉が、心の弱い私にとっては、とても重く感じられてしまったのです。と、雨の中、祇園の通りをゆっくりと歩きながら隣にいる貴女に、優しくも棘のあるような声で語りかけた。
「そうですか。さようなら、私は幸せでした」
と言って私に背中を向けて歩き出す貴女を止めることのできなかった私の弱い心がいけなかったのです。そう思った瞬間、黒い憎悪が、真赤な怒りが突如として腹の中に湧き上がってきたのです。そうして私は、自分の顔を一度だけ渾身の力で殴りました。鼻から赤い液体が零れましたが気には止めません。貴女という、たった一人の女性さえも愛することのできなかった愚かな私への、天罰であり、ささやかな代償なのです。
どうか、どうか貴女は私のことをお忘れください。死んで焼かれて、灰になって墓の下に潜り込むまで、私のことが忘れられないようでは、きっと貴女はどこにも進む事はできないのでしょう。私という屑のような、芥のような人間のことは存在さえも、お忘れください。それで良いのです。そしてどうか、他の誰か素晴らしい男性を見つけ、幸せに生きてください。それが私の、最後の願いなのです。
蓮池に浮かべる言葉さえも、足りない頭でそういった文章を繋げながら、角の薬屋に寄った。
「最近、妙に眠れないのです。睡眠剤のようなものは無いだろうか」
「お前さん、何かを悔やんではいないかい」
薬屋の老婆はそう言って、目だけをこちらに向け、店の奥へ入っていった。すぐに一つの箱を持って戻ってきた。
「これを持っていきなさい。気をつけて」
そう言われ、煤けたような色の箱を渡された。その薬の代金を支払って、店を出た。
箱を開けてみると、中には煙草が入っていた。こんなもので気が紛れたら苦労はしないと思い、一旦は箱を閉じて持っていた巾着袋に乱暴に押し込んだ。しかし、銘柄の書いてない箱と普通のタバコとは違う匂いがどうしても気になってしまい、一本取り出して口に咥え、燐寸を擦った。白のような、グレイのような煙が上がる。一口吸い込んだ。そうして私は気を失って、次に目を覚ましたのは、近所の診療所の寝床の上に横たわっていた時だったのです。
私が吸ったのはどうやら煙草ではなく、成分のよく分からないあへんの様な薬物の類の物でした。医者にそう説明され、他に特筆した異常のみられない私は診療所を出ました。日が傾いて、夜になろうとしていました。橙色の夕焼けがもうすぐ黒く変わって、そしてまた朝が来るのです。
右手に持っている巾着袋には、あの箱が入っています。それはどうしようもなく怖いもののように感じられるのに、気になってしまうのです。あの感覚をもう一度味わったらどうなるのだろうか、私は死ぬのだろうか。気になって仕方が無いのです。そして、もし死んだのならそれはそれで良いのです。ただ一人で野垂れ死んでいくのなら、それもきっと運命なのでしょう。たった一人の女のことも大切にせず、捨てられた後になって忘れられなくなってしまっている私への罰なのでしょう。そんな私は、死んだ方が良いのです。
そうして私は、巾着袋から箱を取りだし、一本口に咥えて燐寸を擦りました。どうにでもなってしまえと思いながら火をつけました。あの時と同じ色の煙が上がって、微かな煙たさが喉の奥を擽りました。今度はすぐに意識を失いはしませんでしたが、強烈な頭痛と吐き気に襲われました。そしてそのまま胃の中のものを道端に吐いてしまいました。
こんな物がなぜ薬屋で売っているのだ。と、微かな疑問と憤りが心を占領していきます。人の考え方とは怖いもので、こんな状況に陥ってしまうと、こんな物なら、毒を買って飲んだ方がまだ良いのではとすら思えてしまうのです。
それから私は、何故だか煙草の様なそれを吸い続けていました。吸い続けるほどに幸福な感覚が押し寄せてくるのです。身体が空に浮かんでいるような感覚と、言葉では言い表せない様な感覚が頭を包んでいくのです。これは一体何なのでしょうか。精神の薬か何かなのでしょうか。分かりません。どうも、脳神経に作用している薬だということは分かりますが、それ以外のことは皆目見当もつきませんでした。ただ、こんな物に依存してしまうのは危険な気がして、小さな箱と燐寸を道に捨てました。
今日も、雨が降っています。虚ろな目に映る道端の花は、どうしようもなく、美しかったことを覚えています。