「まだお戻りじゃないのかい?」
最後に迎えにきたこづえとかの子を見送って、建物の中に戻ったのぞみに、サケ子から声がかかる。
のぞみは黙って頷いた。
寄り合いから帰ってきた紅は、縄張りの見回りに行くと言って再び園を出て行った。
そしてまだ帰ってこない。
少し強い風が日本家屋の古い窓枠をカタカタと揺らしている。
「最近熱心に見回っておられるけど、どうしてだろう。ヌエはもういないのに」
そう言ってサケ子は物言いたげな目でのぞみを見る。のぞみはそれに気が付かないフリをした。
「サ、サケ子さん。先にあがって下さい。えんちゃんも待っているでしょうし」
えんはさっき、仕事帰りの藤吉が嬉しそうに連れて帰った。
サケ子は後片付けをしてから帰るとふたりに告げていたが、子どもたちが皆帰った今は、もうやることはなにもない。
でも彼女は首を振った。
「いや、紅さまが戻られるまでは、のぞみのそばにいることにしよう。……そうした方がよさそうだ」
そう言って窓の外の黒い森に視線を送る。
のぞみの胸がツキンと鳴った。
いつもはあまり意識することはないけれど、彼女も立派なあやかしなのだ。
のぞみにとってはいつもと変わらない夜の森に、なにかを感じて取ってるのだろうか。
「でもえんちゃんは……」
「乳はさっきやったばかりだし、藤吉がいるから大丈夫さ」
そう言ってサケ子は、よいしょと縁側に腰を下ろす。
のぞみも彼女の隣に座った。
夜の森がざざざと鳴った。
「……サケ子さんは、どうして藤吉さんと夫婦になろうと思ったんですか」
子どもたちがいなくなった園庭を見つめながら、のぞみはなんとなく口を開く。
さっき鬼の母親が言っていた言葉が耳から離れなかった。
"夫婦の間で一番大事なこと"
まさか彼女が鬼の母親と同じようなことを言うとは思わないけれど、だったらなおさら、話を聞いてみたかった。
サケ子が少し意外そうにのぞみを見た。
彼女とはよく話をするけれど、大抵は子どもたちに関係することだ。こんな風に、彼女自身について話をするのははじめてだった。
彼女はしばらく逡巡して、でも余計なことはなにも言わず話しはじめた。
「藤吉とは昔なじみなんだけど、真面目でよく働くところが気に入っているよ」
なぜそんなことを聞くのかと言われなかったことにホッとして、のぞみは彼女の話に耳を傾けた。
「口裂け男は大抵は人間の女を相手に稼ぐんだ。色男を装ってついてきたところで口を見せて、ぞぞぞとさせる。怪我をさせることもないし、ぞぞぞをいただいた後は、ちゃんと元のところまで送り届ける。でも女ばかりを相手にするから、あやかしの中でも、卑怯だなんだと言われることが多いんだよ」
「そうなんですか……」
少し意外な話だった。
「うん、口裂け女の方はべつにそうでもないんだけど。だから仲間の中には腐っちまって、ろくに稼がない奴もいるんだよ。もちろんそういう奴は所帯を持てないし、消えてしまったりするんだけど」
「藤吉さんは、腕のいいぞぞぞ稼ぎだって紅さまが言っていましたよね」
だからこそ、サケ子は安心してあやかし園にいられるのだ。
藤吉が、サケ子の分もぞぞぞを稼いでくれるから。
サケ子が頷いた。
「そうだよ。私にとっては真面目に働いてくれる。これが一番大事なことだ」
「一番……」
「ちゃんと働いて、ちゃんと稼ぐ……真面目にね」
そう言ってサケ子は、なにかに気が付いたようにのぞみを見た。
「のぞみ、もしかしてさっきのことを気にしてるのかい?」
「……え?」
サケ子がのぞみを安心させるように優しい言葉を口にする。
「紅さまも大丈夫さ。つかみどころない方だけど、ちゃんと仕事はするだろう。今だって、見回りに行かれているじゃないか。きっと赤子ができたら働かなくなるなんて、さっき私が言ったことを心配してるなら……」
「そ、そうじゃありません」
のぞみは慌てて首を振った。
「それは心配していません。ただ、なんとなく聞きたくなっただけです。サケ子さんと藤吉さん、本当に素敵な夫婦だから……」
「……ならいいけど」
サケ子が安心したように息を吐いた。
そう、そんなことを心配しているわけではないけれど……。
のぞみはそのまま黙り込む。風は少し落ち着いて、フクロウがホーホーと鳴いている。
「遅くなって悪かったね」
声をかけられて振り返ると子どもたちが帰った後の部屋に、紅が立っていた。
「あ、おかえりなさい」
「一緒に待っていてくれたんだね。ありがとう、サケ子」
サケが頷いて立ち上がる。
「さあさ、店じまいだ」
呟いて、帰って行った。
「私たちも帰ろう」
そう言って建物の出口へ向かう紅の背中をのぞみはジッと見つめた。
自分がある重要なことを見落としていたのではないかと思い始めていた。
夫婦とは、一緒になっただけで終わりではない。ずっと寄り添い、ともに歩んでいくものなのだ。
愛し愛されて一緒になることはたしかに幸せなことだろう。でもその先には愛し合った時間の何倍もの長い道のりが待っている。
さっきサケ子が言ったような心配をのぞみはしているわけではない。
紅はいつも子どもたちを思い、縄張りの皆を守るという役割をまっとうしている。それはきっとこの先もなにも変わらないだろう。
あやかしの長、天狗と夫婦になる。
彼を愛おしいと思うからそう決めた。
でもその彼の隣で、自分はどうあるべきなのだろう。
そして彼にとって、人間であるのぞみと結婚する意味はいったいどこにあるのだろう。
最後に迎えにきたこづえとかの子を見送って、建物の中に戻ったのぞみに、サケ子から声がかかる。
のぞみは黙って頷いた。
寄り合いから帰ってきた紅は、縄張りの見回りに行くと言って再び園を出て行った。
そしてまだ帰ってこない。
少し強い風が日本家屋の古い窓枠をカタカタと揺らしている。
「最近熱心に見回っておられるけど、どうしてだろう。ヌエはもういないのに」
そう言ってサケ子は物言いたげな目でのぞみを見る。のぞみはそれに気が付かないフリをした。
「サ、サケ子さん。先にあがって下さい。えんちゃんも待っているでしょうし」
えんはさっき、仕事帰りの藤吉が嬉しそうに連れて帰った。
サケ子は後片付けをしてから帰るとふたりに告げていたが、子どもたちが皆帰った今は、もうやることはなにもない。
でも彼女は首を振った。
「いや、紅さまが戻られるまでは、のぞみのそばにいることにしよう。……そうした方がよさそうだ」
そう言って窓の外の黒い森に視線を送る。
のぞみの胸がツキンと鳴った。
いつもはあまり意識することはないけれど、彼女も立派なあやかしなのだ。
のぞみにとってはいつもと変わらない夜の森に、なにかを感じて取ってるのだろうか。
「でもえんちゃんは……」
「乳はさっきやったばかりだし、藤吉がいるから大丈夫さ」
そう言ってサケ子は、よいしょと縁側に腰を下ろす。
のぞみも彼女の隣に座った。
夜の森がざざざと鳴った。
「……サケ子さんは、どうして藤吉さんと夫婦になろうと思ったんですか」
子どもたちがいなくなった園庭を見つめながら、のぞみはなんとなく口を開く。
さっき鬼の母親が言っていた言葉が耳から離れなかった。
"夫婦の間で一番大事なこと"
まさか彼女が鬼の母親と同じようなことを言うとは思わないけれど、だったらなおさら、話を聞いてみたかった。
サケ子が少し意外そうにのぞみを見た。
彼女とはよく話をするけれど、大抵は子どもたちに関係することだ。こんな風に、彼女自身について話をするのははじめてだった。
彼女はしばらく逡巡して、でも余計なことはなにも言わず話しはじめた。
「藤吉とは昔なじみなんだけど、真面目でよく働くところが気に入っているよ」
なぜそんなことを聞くのかと言われなかったことにホッとして、のぞみは彼女の話に耳を傾けた。
「口裂け男は大抵は人間の女を相手に稼ぐんだ。色男を装ってついてきたところで口を見せて、ぞぞぞとさせる。怪我をさせることもないし、ぞぞぞをいただいた後は、ちゃんと元のところまで送り届ける。でも女ばかりを相手にするから、あやかしの中でも、卑怯だなんだと言われることが多いんだよ」
「そうなんですか……」
少し意外な話だった。
「うん、口裂け女の方はべつにそうでもないんだけど。だから仲間の中には腐っちまって、ろくに稼がない奴もいるんだよ。もちろんそういう奴は所帯を持てないし、消えてしまったりするんだけど」
「藤吉さんは、腕のいいぞぞぞ稼ぎだって紅さまが言っていましたよね」
だからこそ、サケ子は安心してあやかし園にいられるのだ。
藤吉が、サケ子の分もぞぞぞを稼いでくれるから。
サケ子が頷いた。
「そうだよ。私にとっては真面目に働いてくれる。これが一番大事なことだ」
「一番……」
「ちゃんと働いて、ちゃんと稼ぐ……真面目にね」
そう言ってサケ子は、なにかに気が付いたようにのぞみを見た。
「のぞみ、もしかしてさっきのことを気にしてるのかい?」
「……え?」
サケ子がのぞみを安心させるように優しい言葉を口にする。
「紅さまも大丈夫さ。つかみどころない方だけど、ちゃんと仕事はするだろう。今だって、見回りに行かれているじゃないか。きっと赤子ができたら働かなくなるなんて、さっき私が言ったことを心配してるなら……」
「そ、そうじゃありません」
のぞみは慌てて首を振った。
「それは心配していません。ただ、なんとなく聞きたくなっただけです。サケ子さんと藤吉さん、本当に素敵な夫婦だから……」
「……ならいいけど」
サケ子が安心したように息を吐いた。
そう、そんなことを心配しているわけではないけれど……。
のぞみはそのまま黙り込む。風は少し落ち着いて、フクロウがホーホーと鳴いている。
「遅くなって悪かったね」
声をかけられて振り返ると子どもたちが帰った後の部屋に、紅が立っていた。
「あ、おかえりなさい」
「一緒に待っていてくれたんだね。ありがとう、サケ子」
サケが頷いて立ち上がる。
「さあさ、店じまいだ」
呟いて、帰って行った。
「私たちも帰ろう」
そう言って建物の出口へ向かう紅の背中をのぞみはジッと見つめた。
自分がある重要なことを見落としていたのではないかと思い始めていた。
夫婦とは、一緒になっただけで終わりではない。ずっと寄り添い、ともに歩んでいくものなのだ。
愛し愛されて一緒になることはたしかに幸せなことだろう。でもその先には愛し合った時間の何倍もの長い道のりが待っている。
さっきサケ子が言ったような心配をのぞみはしているわけではない。
紅はいつも子どもたちを思い、縄張りの皆を守るという役割をまっとうしている。それはきっとこの先もなにも変わらないだろう。
あやかしの長、天狗と夫婦になる。
彼を愛おしいと思うからそう決めた。
でもその彼の隣で、自分はどうあるべきなのだろう。
そして彼にとって、人間であるのぞみと結婚する意味はいったいどこにあるのだろう。