開いた扉の向こうには、もうもうと湯気が立ち込める巨大な檜の風呂があった。
 その中で、楽しそうに湯に浸かるたくさんの裸のあやかしたち。
 ど真ん中を陣取るのは、筋肉隆々の男性だった。
 ギョロリとした緑色の大きな目、太い眉、ぐねぐねした髪からは天まで届くと見紛うほどのツノが二本生えている。
 おそらくは彼がこの御殿の主大神なのだろう。
 だが髪やツノはともかくとして、姿は人間とそう変わらない、マッチョなイケメンだった。
 その周りをたくさんの女性が取り囲んでいる。
 きゃあきゃあと湯をかけ合いながら、実に楽しそうだ。
「まったく……、女と湯に浸かるのがどうしてそんなに嬉しいんだ。相変わらず女好きだな、大神は」
 うんざりしたように言う紅に、のぞみは呆れ返ってしまう。
 自分だって昨夜勝手に風呂に入ってきたくせに、どの口がそんなことを言う。
 やがて風呂の中のあやかしたちが、のぞみたちふたりに気が付いた。
「あれ? あの方、紅さまじゃない?」
「あ、本当! 紅さまだわ」
 その途端、きゃー‼︎という黄色い歓声に、のぞみと紅は包まれた。
「紅さまぁ~! お久しぶりでぇ~す!」
「相変わらず素敵~!」
「また、お相手してくださーい!」
 手を振ったり、投げキスをしたり、色めき立つあやかしたちに、のぞみはびっくり仰天してしまう。
 昨日からの疑念が、確信に変わった瞬間だった。
「ふふふ、それでは私はこれにて……」
 蛇娘がチロチロと舌を出して、満足そうに下がって行った。
「……紅さま、嫁を迎えることには興味がなかったって言ってたのに」
 いつかの日の彼自身の言葉を持ち出して、のぞみは膨れっ面になってしまう。
 紅があやかしの女性たちにモテモテなのは気付いていたが、これほどまでとは思わなかった。
 しかもどうやらモテるだけではないみたいだし……。
「む、昔、縄張りを持つ前のことなんだ。若いあやかしとしては結構普通のことなんだよ。それに今はのぞみだけだから……!」
 紅がのぞみの手を取って、あわあわと言い訳をする。
 その時。
「ええい! うるさいわ!」
 大神が口を開いた。
 地鳴りがするかのようなその声に、のぞみはびくりと肩を揺らす。この広い湯殿の一番遠くにいるとは思えないほど、身体に響く声だった。
 のぞみは紅が大神の正体は龍だと言っていたのを思い出した。
「お前が来ると女子が騒ぐからうっとおしいんだ‼︎ 決して辿りつかぬように蛇娘に言うておったのに、なぜここまで来れた!」
 だからさっき、なかなか辿りつかなかったのかと、のぞみはあの長い長い廊下を思い出す。
 紅が肩をすくめた。
「あらかじめ伝えてあったじゃないか。結婚の許しをもらいにきただけだよ。許しをもらえたらすぐに帰る」
 大神が眉を寄せた。
「紅よ、おぬしほどの力があればもっと広い縄張りが持てるだろうに、それをせんどころか人間を嫁に迎えたいなど、意味不明な奴だ。……好きにせい」
 そしてあっちへいけというように、しっしと手を振った。
「決まりだね」
 紅が嬉しそうに微笑んで、のぞみの手を握る。
 一方で風呂のあやかしたちに、なんとも言えない空気が広がった。
 皆ヒソヒソと囁き合い、ジロジロとのぞみを見ている。
「紅さまのお嫁さまが人間だなんて、もったいない……」
「絶対に私の方が魅力的なのに……」
「長さまなのに……」
 そんな言葉まで聞こえてきて、のぞみの胸がズキンと鳴る。
 大神が声を張り上げた。
「ええい、うるさい! わかったら、さっさと往ね! おい蛇娘、天狗が帰るぞ案内してやれ!」
 その言葉と同時に、また観音扉がギギギと開く。
 他のあやかしたちの反応はともかくとして、昨夜紅が言った通り結婚の許しはあっさり下りた。
 そのことに安堵して、のぞみはホッと息を吐く。早く縄張りの皆のところへ帰りたかった。
 そしてふたりして、湯殿を去ろうとしたその時。
「おめでとうございます~」
 足元から聞こえる恨めしそうな誰かの声。
 見るとのぞみの脚に、さっきの蛇娘がにょろ~と絡み付いていた。
「ひっ……!」
 のぞみの喉から引き攣った声が出る。同時に繋いでいたはずの紅の手が離れた。
「あ」
「のぞみ!」
「紅さま!」
 のぞみは蛇娘に引っ張られて、ずるずると紅から引き離される。
 それを追いかけようとする紅にもまたたくさんの蛇がぐるぐると巻きついていた。
 十二単を着たその蛇たちは、皆嬉しそうに舌を出しながら、紅に絡み付いている。
 あやかしとしての力は紅の方が上だとしても、束になってかかられては簡単に振り払うことができないようだ。
 蛇娘はふふふと笑いながら、のぞみを湯船まで引っ張っていく。
 そして、湯に浸かる大神が見つめる中、のぞみの耳に囁いた。
「かわいいかわいい婚約者さま、私は幸せな夫婦というものがなにより大嫌いなのでございます」
 そう言って長い舌で、のぞみのうなじをペロリと舐めた。
 黄緑色に輝くぞぞぞが湯気の中に浮かび上がる。
 蛇娘はにっこり微笑んだ。
「あらまぁ、美味しそうなぞぞぞですこと」
 それに大神が反応した。
「……ぞぞぞか」
 そう呟いて、ゆっくりと立ち上がる。身体からはもうもうと湯気が立っていた。
「のぞみ!」
 紅の声が鋭く湯殿に響き渡る。
 なんとか蛇を振り解き、のぞみに駆け寄ろうとするけれど、それは大神によって阻止された。
「いでよ、伊織」
 地を這うような声とともにたくさんの狐たちが現れる。そしてそれらは一目散に紅目がけて襲いかかった。
 指揮を取っているのは燕尾服姿の狐だった。
「伊織……!」
 狐の山の下敷きになって、紅が伊織を睨みつける。
 伊織はしなりと頭を下げた。
「手荒な真似をいたしまして申し訳ございません、紅さま。ですがこちら、大神さまの御前であることをお忘れなく」
「……!」
 大神が頷いて、のぞみの方に向き直る。
 その目を見た瞬間に、のぞみの身体は石のように動かなくなった。声を出すことすらままならない。
 足元の蛇娘が満足そうに微笑んで、スルスルと離れていった。
「美味そうなぞぞぞだ」
 大神がゆっくりと歩み寄り、震えるのぞみのアゴを掴む。
「のぞみに触るな!」
 紅が叫ぶ。
 その声を聞きながら、のぞみは大神の瞳から目が離せなくなっていた。深い深いその緑は恐ろしいくらいに美しく、妖しくのぞみを誘っている。
 自分の意思などは捨て去って、彼に従ってしまいたくなる。
 ……その時。
「ほぅ」
 大神が、なにかに気が付いた。
「お前、あやかし使いだな」
 耳慣れないその言葉。
 風呂の中のあやかしたちにざわめきが広がった。
「あやかし使い……」
「そういうことか……」
 互いに額を寄せ合ってヒソヒソと囁き合っている。
 大神がニヤリと笑って紅を見た。
「いくら変わり者の天狗だとて、人間を嫁にしたいなど酔狂なと思うたが、あやかし使いなら納得だ。あやかし使いのぞぞぞは格別に美味いという話しゆえ……」
 そう言って大神は宙に浮くのぞみのぞぞぞにかぶりつき、むしゃむしゃと食べ始めた。
 のぞみは思わず目を閉じる。
 食べられているのはぞぞぞのはずなのに、まるで自分自身が食べられているかのようだった。
 大神が、満足そうに唇を舐めた。
「なるほど、ふむ、なるほど……」
 そしてまたのぞみを見つめて、ニヤリと妖しい笑みを漏らす。
 もう一度唇を舐めてから、にわかには信じがたい言葉を口にした。
「おい人間の女、お前のぞぞぞが気に入った。ワシの妃にしてやろう」
 おお~‼︎ というどよめきが、湯殿の中に響き渡る。思いがけない大神の言葉に皆度肝を抜かれている。
「大神‼︎ のぞみを離せ」
 狐の下から紅が叫んだ。
 その声を聞きながら、のぞみは相変わらず固まったまま、声をあげることもできないでいた。
 すぐそばにある緑色の瞳が否とは言わせないというようにのぞみの思考を鈍らせる。このまま、なにも考えずに我に身をゆだねよと、得体のしれない声が聞こえる。
 狐とやり合う紅の怒号がだんだんと遠のいてゆく。
 妖しく響く大神の声音がのぞみの脳に語りかける。
「ワシの妃となれば、天狗と夫婦になるよりも極上の暮らしができるのだ。夢の世界を見せてやろう」
 玉のような緑色の瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。
 極上の世界に今すぐに行きたい。
 このまま……。
 ——その時。
「の、ぞ、み、を、は、な、せ‼︎」
 ばりばりばりという凄まじい音。
 赤い風が強く吹いて、アゴを掴む手が離れる。思わず目を閉じて、次に開いた時は赤い竜巻の中で、紅に抱かれていた。
「紅さま‼︎」
 のぞみは紅にしがみつく。
 天まで続く赤い竜巻は御殿の天井を破壊しながらふたりを守るように取り囲んでいる。
 彼にくっついていた狐たちはふっ飛ばされて散り散りになり、床に這いつくばっている。
「大神よ、のぞみは私の嫁だ。妃になどさせん!」
 ごうごうと風の音が鳴り響く中、よく通る声で紅が言う。銀色の髪が逆立って、その瞳は真っ赤だった。
 怒りに満ちたその姿。だが大神も負けてはいなかった。
 ぐねぐねとしたツノからは黄金色の稲妻が竜巻目がけて飛んでくる。そして地響きをともなう声音が紅を罵った。
「忌々しい天狗め! お主はいつも目ざわりなのだ。ワシに歯向かうあやかしなどこの世に存在できぬというのに。その女子を渡せ‼︎ ワシのものだ」
 同時に紅が飛び上がった。
「絶対に逃がしはしない‼︎」
 怒り狂う龍の怒号を背中で聞いて、ふたりは御殿を脱出した。