一変する景色にのぞみは思わず目を閉じる。
満月が照らす夜の空を飛ぶ間、紅は口をきかなかった。でもその腕は、もう二度と離さないというように強くのぞみの身体を抱いている。
のぞみも彼にしがみついた。
帰ろうと言ったはずなのに紅は山神神社とは別の方向に飛んでゆく。
ついた先は、住宅街の中の古びたアパートだった。
ベランダに、こづえがいる。
かの子はもう寝たのだろう、部屋の明かりは消えている。こづえは頭にぐるぐるとタオルを巻いて、缶ビールを片手に持っていた。
風呂上がりのようだ。
「のぞみ!」
ベランダの高さまで下りてきて、そのままふわふわと浮くふたりに気が付いて、嬉しそうに手を上げた。
「今日はどうしたの? 心配したよ」
ホッとした様子で小言めいた言葉を口にする。
のぞみは眉を下げて謝った。
「迷惑をかけて、ごめんなさい」
「いや、迷惑じゃないんだけど、なにしろ急だったからさ。サケ子に聞いてもなにも知らないって言うし……。でもその様子じゃ平気そうだね」
心底安心した様子で微笑むこづえに、のぞみの胸は熱くなる。
こんな風に心配してくれることが、ありがたい。
「本当にごめんなさい。今日はふぶきちゃんに会いに行っていたんです」
心配をかけてしまった代わりにのぞみは事情を説明する。
こづえが合点したように頷いた。
「そうかい。それで? ふぶきはどうだった?」
「明日から元気に来てくれます」
のぞみが受け合うと、こづえは安心したようにため息をついた。
「かの子が喜ぶよ。ふぶきが休みの間はしおしおにしおれていたからね。恩に着るよのぞみ、ありがとう」
「私はなにも……」
「それにしても、あのふたりは随分と気が合うようだ」
母親らしくこづえは言う。
のぞみは微笑んで頷いた。
「本当に。ふぶきちゃんがまだ園に馴染めない頃はとってもかの子ちゃんに助けられました」
ふぶきがまだあやかし園のひと部屋に閉じこもっていた頃、子どもたちがふぶきに対して早々に苦手意識を持ってしまった後も、かの子だけはふぶきに興味を持ち続けてくれていた。
のぞみがふぶきのところへ様子を見に行く時に、一緒について来てくれることもあったくらいだ。
「あの子は座敷童子だからね」
こづえが誇らしげに胸を張った。
「座敷童子はもともとどんな相手とも友だちになるのが得意なあやかしさ。でないとおまんまは食えないからね」
「そうなんですね。そっか、かの子ちゃんも座敷童子として成長してるんだ……」
のぞみはかの子が眠っている明かりが消えた部屋に視線を移して微笑んだ。
かの子はあやかし園の子どもたちの中で、のぞみが一番はじめに関わった子だ。
その彼女の成長が嬉しかった。
するとこづえが意外なことを言った。
「のぞみのおかげだよ」
「……え?」
のぞみは小さく首を傾げた。
「あの子もここに来たばかりのころはふぶきみたいに園に馴染めなかった。私はそれに気が付いていたけれど、慣れない土地で稼ぐのに必死でさ、なかなか気にかけてやれなかったんだ。でもあんたが、あの子に寄り添ってくれた。毎日手を繋いであやかし園に連れて行ってくれたじゃないか。あの子が座敷童子らしく成長できているのはあんたのおかげだ」
そう言ってこづえはニカッと笑う。
「こづえさん……」
思いがけない友人からの言葉に、のぞみは思わず涙ぐむ。
人間だ、役立たずだと、自分自身を卑下していた弱くて惨なあの気持ちが少しだけ癒やされてゆく。
そうだ。
そんな風に思っていて、あやかし園の先生が務まるはずがない。
「夜遅くに来て悪かったね。こづえ、また明日」
紅がのぞみを抱き寄せる。
こづえが頷いて、少し考えてから眉を寄せて口を開いた。
「だけど、紅さま。のぞみがいなきゃダメなのは紅さまだけじゃないんだ。夫婦になるのなら本当に大切にしてくださいよ」
よくあるいつものふたりの軽口にも思えるその言葉。
こづえが紅の痛いところを突き、それに紅がちょっとした嫌味で応えるのだ。
でも今日の紅は、少し様子が違っていた。
月を背に穏やかに微笑んで、彼にしては珍しく神妙に頷いた。
「肝に銘じるよ」
そしてのぞみを抱きしめて、また夜の空に飛び上がった。
満月が照らす夜の空を飛ぶ間、紅は口をきかなかった。でもその腕は、もう二度と離さないというように強くのぞみの身体を抱いている。
のぞみも彼にしがみついた。
帰ろうと言ったはずなのに紅は山神神社とは別の方向に飛んでゆく。
ついた先は、住宅街の中の古びたアパートだった。
ベランダに、こづえがいる。
かの子はもう寝たのだろう、部屋の明かりは消えている。こづえは頭にぐるぐるとタオルを巻いて、缶ビールを片手に持っていた。
風呂上がりのようだ。
「のぞみ!」
ベランダの高さまで下りてきて、そのままふわふわと浮くふたりに気が付いて、嬉しそうに手を上げた。
「今日はどうしたの? 心配したよ」
ホッとした様子で小言めいた言葉を口にする。
のぞみは眉を下げて謝った。
「迷惑をかけて、ごめんなさい」
「いや、迷惑じゃないんだけど、なにしろ急だったからさ。サケ子に聞いてもなにも知らないって言うし……。でもその様子じゃ平気そうだね」
心底安心した様子で微笑むこづえに、のぞみの胸は熱くなる。
こんな風に心配してくれることが、ありがたい。
「本当にごめんなさい。今日はふぶきちゃんに会いに行っていたんです」
心配をかけてしまった代わりにのぞみは事情を説明する。
こづえが合点したように頷いた。
「そうかい。それで? ふぶきはどうだった?」
「明日から元気に来てくれます」
のぞみが受け合うと、こづえは安心したようにため息をついた。
「かの子が喜ぶよ。ふぶきが休みの間はしおしおにしおれていたからね。恩に着るよのぞみ、ありがとう」
「私はなにも……」
「それにしても、あのふたりは随分と気が合うようだ」
母親らしくこづえは言う。
のぞみは微笑んで頷いた。
「本当に。ふぶきちゃんがまだ園に馴染めない頃はとってもかの子ちゃんに助けられました」
ふぶきがまだあやかし園のひと部屋に閉じこもっていた頃、子どもたちがふぶきに対して早々に苦手意識を持ってしまった後も、かの子だけはふぶきに興味を持ち続けてくれていた。
のぞみがふぶきのところへ様子を見に行く時に、一緒について来てくれることもあったくらいだ。
「あの子は座敷童子だからね」
こづえが誇らしげに胸を張った。
「座敷童子はもともとどんな相手とも友だちになるのが得意なあやかしさ。でないとおまんまは食えないからね」
「そうなんですね。そっか、かの子ちゃんも座敷童子として成長してるんだ……」
のぞみはかの子が眠っている明かりが消えた部屋に視線を移して微笑んだ。
かの子はあやかし園の子どもたちの中で、のぞみが一番はじめに関わった子だ。
その彼女の成長が嬉しかった。
するとこづえが意外なことを言った。
「のぞみのおかげだよ」
「……え?」
のぞみは小さく首を傾げた。
「あの子もここに来たばかりのころはふぶきみたいに園に馴染めなかった。私はそれに気が付いていたけれど、慣れない土地で稼ぐのに必死でさ、なかなか気にかけてやれなかったんだ。でもあんたが、あの子に寄り添ってくれた。毎日手を繋いであやかし園に連れて行ってくれたじゃないか。あの子が座敷童子らしく成長できているのはあんたのおかげだ」
そう言ってこづえはニカッと笑う。
「こづえさん……」
思いがけない友人からの言葉に、のぞみは思わず涙ぐむ。
人間だ、役立たずだと、自分自身を卑下していた弱くて惨なあの気持ちが少しだけ癒やされてゆく。
そうだ。
そんな風に思っていて、あやかし園の先生が務まるはずがない。
「夜遅くに来て悪かったね。こづえ、また明日」
紅がのぞみを抱き寄せる。
こづえが頷いて、少し考えてから眉を寄せて口を開いた。
「だけど、紅さま。のぞみがいなきゃダメなのは紅さまだけじゃないんだ。夫婦になるのなら本当に大切にしてくださいよ」
よくあるいつものふたりの軽口にも思えるその言葉。
こづえが紅の痛いところを突き、それに紅がちょっとした嫌味で応えるのだ。
でも今日の紅は、少し様子が違っていた。
月を背に穏やかに微笑んで、彼にしては珍しく神妙に頷いた。
「肝に銘じるよ」
そしてのぞみを抱きしめて、また夜の空に飛び上がった。