「母上!」
ふぶきが走り出して、その女性に飛びついた。
「おかえりなさい!」
長期出張へ行っていたというふぶきの母親が帰ってきたのだ。
ふぶきの母親……伊織に"おゆきの方さま"と呼ばれていたそのあやかしは、当然雪女だ。
でもその出立ちは、およそのぞみの頭の中の雪女のイメージとはかけ離れていた。
ふぶきと同じ透き通る水色の髪はゴージャスにカールしてふわりと背中に流れている。目鼻立ちのはっきりした顔立ちに派手なメイク。着ている服は、キラキラスパンコールのロングドレスだった。
雪女というよりは氷の女王という言葉がぴったりなその女性に、のぞみの隣で紅が「げ」と変な声を出した。
「……紅さま?」
一方で、母子は久しぶりの再会を喜び合っている。
おゆきがスーツケースを傍に置いて、ふぶきを抱きしめた。
「ふぶき、いい子にしてた?」
「うん! 母上、バカンスは楽しかったか?」
「ふふふ、のんびりしたよ。寂しかった? ごめんね」
おゆきはふぶきをひとり置いていったことを詫びている。
でもその母親の言葉に、ふぶきは首を振った。
「ううん。寂しくなかった。ふぶき保育園に行ってたから」
「え? 保育園?」
その言葉におゆきがマスカラの目をパチパチさせる。
ふぶきがおゆきのふわふわの髪の中から、のぞみと紅を振り返った。
「うん。あそこにいるのが先生じゃ」
「……まずい」
紅が呟いて、口元を手で覆う。
それを不審に思いながらも、のぞみはおゆきに向かって頭を下げた。
「あやかし保育園の保育士をしておりますのぞみと申します。お母さんがご不在の間、ふぶきちゃんをお預かりしておりました。ふぶきちゃん、もうすっかり園に馴染んで、お友達もたくさんできたんですよ」
おゆきは唖然としながら、のぞみの言葉に頷いて隣の紅に視線を移す。
そして心底驚いたように声をあげた。
「紅さまじゃん!」
紅が万事休すといった様子で目を閉じる。
のぞみはびっくりして彼を見た。
「そういえば、保育園やってるって噂聞いたかも! あれマジだったんだ! ウケる!」
おゆきはカラカラ笑いながら、カツカツとハイヒールを響かせてこちらの方にやってくる。
そして気まずそうに腕を組んで視線を逸らしている紅の肩をバシバシ叩いた。
「保育園って、子どもを集めて遊ばせるんだよね。なんでそんなことしたいのか私にはわかんないけど。なに、ふぶきも行ってたの? ウケる!」
そう言っておゆきはまた笑う。
ふぶきが彼女のドレスの裾を引っ張った。
「おもしろいところじゃ。ふぶきは好きじゃ」
「へぇ、ならよかったじゃん。狐が子どもを集めて子育てするのと一緒かな」
紅がゴホンゴホンと咳払いをした。
「せっかく母親が帰ってきたんだ。水入らずの方がいいだろう。のぞみ、帰るよ」
そう言ってそそくさと退散しようとする。
それをおゆきが止めた。
「なんで? まだいいじゃん! 超久しぶりなんだからさ。ゆっくりしていきなよ。ふぶきの保育園での様子も聞きたいし」
ふぶきの様子を聞きたいという彼女の希望は、母親としては当然だ。
でもそれにしても紅の様子が変だった。
まるで悪事が見つかったかのように、そわそわとして、落ち着かない。
保護者としてのおゆきの要望にも、首を振る始末だった。
「いや、忙しいからそれは無理だ。ふぶきの保育園での様子はふぶきから聞いてくれ」
無茶苦茶なことを言っている。
のぞみはふぶきを預かるより以前のことを思い出す。
そういえば彼はそもそもふぶきを預かることに前向きでななかった。
『あのおゆきが働くはずがない』と言っていたのだ。
あれはふぶきが大神の子どもだからだとのぞみは思っていたけれど……。
おゆきがつまらなそうに口を尖らせる。そしてついに、のぞみが知りたいことの核心を口にした。
「冷たいなぁ、それが元カノに対する態度?」
やっぱり‼︎
のぞみはじろりと紅を睨む。
そののぞみの視線から逃げるように、紅慌てて口を開いた。
「と、とにかく、私たちは忙しいんだ。早く帰らないと……!」
その彼に、のぞみは憮然として呟いた。
「……蛇娘さんの言う通りだった」
「え? 蛇娘?」
紅がぴたりと動きを止めて首を傾げる。
その姿にのぞみの頭のはムカムカとした怒りの感情でいっぱいになった。
そして彼を睨みつけた。
「男の人は都合の悪いことは黙ってるって話です‼︎」
紅がのぞみの手を取った。
「つ、都合の悪いことではなくて、言わなくていいことは言わないだけなのだよ。のぞみを余計なことで不安にさせたくないからね。優しさというか、思いやりというか……」
あわあわと言う紅の言葉は、のぞみの心にまったく響いてこなかった。
「そんな思いやり、いりません! だいたい紅さまはいっつも……!」
その時、おゆきが弾かれたように笑い出した。
のぞみは驚いて口をつぐむ。頭に血が昇って彼女がいることを忘れていた。
おゆきは心底おかしいというように手を叩いてひとしきり笑ったあと、目尻の涙を拭きながら、のぞみに向かって口を開いた。
「あんた紅さまの今カノ? 人間だよね? 人間は過去を気にするって本当だったんだ‼︎ だったら、ムカつくよね。ごめんごめん! にしても紅さまのその慌てた顔!」
そしてまた笑い出す。
唖然とするのぞみの肩に手を置いて、おゆきがクリスタルのような透き通る瞳でジッとのぞみを見つめた。
「あ、あの……」
「あんた、ちょっと地味だけどかわいいじゃん‼︎」
あっけらかんとしたその彼女にのぞみは唖然としてしまう。
ふぶきがまたドレスの裾を引っ張った。
「のぞ先生じゃ、母上」
「のぞ先生ね。のぞ先生、安心してよ。付き合ってたっていってももうずっと前のことだし。ずっと会ってなかったし」
そう言っておゆきはニカッ笑う。
のぞみは彼女のペースに呑み込まれてゆくのを感じながら、こくんと頷いた。
「……はい」
とりあえず、保護者のひとりが園長の元カノで、その園長は保育士のひとりと婚約中などという人間の世界だったらこの上なく気まずい状況は、あまり問題にはならなさそうだ。
それどころかおゆきはふたりの関係に興味深々だった。
「で? ふたりは付き合ってどのくらい? 結婚は?」
その疑問に、紅がため息をついて口を開いた。
「大神に邪魔をされていなければ、もうとっくに夫婦になっていたはずだよ」
「ちょ……! 紅さま‼︎」
のぞみは慌てて彼の袖を引っ張った。
大神さまに邪魔されて結婚できないのは事実だが、それを話してしまうのはいくらなんでも具合が悪い。
なにせ目の前にいるおゆきは他でもない大神の妃なのだから。
「え? 大神さまが?」
おゆきが首を傾げた。
「結婚の許しをもらいに行ったら、のぞみは自分の妃にしたいと言い出したんだ。まったくなにを考えているのやら……」
のぞみが止めるのも聞かないで、紅はぺらぺらとすべての事情を話してしまう。
恐る恐るおゆきを見ると彼女は「そうなんだ」と呟いて、眉を寄せてのぞみを見た。
「のぞ先生」
「はい……」
のぞみはごくりと喉を鳴らす。真剣な彼女の視線が怖かった。
きっとおゆきはのぞみを不快に思ったに違いない。
罵倒されるか、あるいは冷たい言葉をかけられるか、どちらかだろうと予想して、のぞみは思わず身構える。
でも彼女から出た言葉は、そのどちらでもなかった。
「どうして大神さまの妃にならないの?」
「は?」
意外すぎる問いかけに、のぞみはそう声を漏らしたままそれ以上は答えられない。
そこへおゆきはたたみかけた。
「だって大神さま、サイコーだよ。紅さまより絶対いい! 妃になれるなんてめちゃくちゃ幸運なんだから!」
なにを言ってるんですかと言うこともできないで、のぞみは目を白黒させる。
そののぞみの手をふぶきが引っ張った。
「のぞ先生、お父上のお妃さまになるのか? なら御殿で一緒に住めるんじゃな。嬉しい‼︎」
「ふぶきがここまで懐くなんて滅多にないよ。いいじゃん! 妃になれば! ふぶき、部屋は近くにしてもらおうね!」
母子は勝手に盛り上がる。
それに紅が待ったをかけた。
「待て待て待て! のぞみは大神の妃にはならない。今私たちは大神がのぞみを諦めるのを待っているのだよ‼︎」
「あ、そうか」
おゆきが目をパチクリとさせる。
「そうだとはじめから言ってるじゃないか!」
紅の言葉にふぶきが残念そうにのぞみを見上げた。
「のぞ先生、お妃さまにはなってくれぬのか?」
「ふぶきちゃん……」
そのキラキラの瞳に、のぞみの胸がきゅんと鳴った。
「ごめんね。でも保育園に来てくれたら毎日会えるから……」
「のぞ先生」
今度はおゆきがのぞみの腕をガシッと掴む。
そして真剣な眼差しにたじたじになるのぞみに向かって言い聞かせるみたいに話し始めた。
「いい? 男は権力だよ。夫婦になるなら権力のある男を選ばなきゃ。大神さまはそういう意味でサイコーだよ。いちいちぞぞぞを取りに行かなくても、ここでは毎日召使いがぞぞぞを運んでくる。今年のバカンスは北極オーロラツアーだったんだけど、妃の私はどこへ行ってもビップ扱い。紅さまなんて相手にもならないいよ。ね? 大神さまにしときなって!」
またもや意外すぎるおゆきの言動に、のぞみの頭はもうついてゆけない。
混乱しながら、とりあえずの疑問を口にした。
「お、おゆきさんは、大神さまが別の妃さまをお迎えしても平気なんですね……?」
「平気平気! 妃の数が多いのは権力がある男の証なんだよ!」
カラカラとおゆきは笑う。そして残念そうに紅を睨んだ。
「紅さまも力は強いよ。もしかしたら大神さまと同じくらいかも。きっと本気になったらこの御殿と同じくらい大きな御殿を建てて、たくさんの女を妻にできる。でも野心がないんだよ。縄張りも田舎だし……。だから私は別れたの。ね? のぞ先生、悪いことは言わないから私の言う通り……」
「ダメだと言ってるだろう? ……だからおゆきとのぞみを会わせるのは嫌だったんだ」
ため息をついてそう言って、紅はおゆきからのぞみの手を奪い取った。
「のぞみ、帰るよ。そろそろ本当に時間がなくなってきた」
それを無視してのぞみはおゆきに呼びかけた。
「おゆきさん」
「ん?」
紅の元カノという事実はさておいて彼女自身は悪い人ではなさそうだ。
もしかしたら味方になってくれるかもしれない。
「私、どうしても大神さまのお妃さまにはなれないんです。大神さまが諦めてくださるような、いい方法はありませんか?」
懇願するのぞみに、おゆきは眉を上げてから、口元に手をあてて考えこんだ。
「諦めてもらう方法ねぇ……」
その時。
ダダダダダと廊下を走る音がこちらに近づいてくる。
紅が咄嗟にのぞみを背中にかばった。
皆が注目をする中、バンッと開いた扉の先、青い顔して立っていたのは伊織だった。
ふぶきが走り出して、その女性に飛びついた。
「おかえりなさい!」
長期出張へ行っていたというふぶきの母親が帰ってきたのだ。
ふぶきの母親……伊織に"おゆきの方さま"と呼ばれていたそのあやかしは、当然雪女だ。
でもその出立ちは、およそのぞみの頭の中の雪女のイメージとはかけ離れていた。
ふぶきと同じ透き通る水色の髪はゴージャスにカールしてふわりと背中に流れている。目鼻立ちのはっきりした顔立ちに派手なメイク。着ている服は、キラキラスパンコールのロングドレスだった。
雪女というよりは氷の女王という言葉がぴったりなその女性に、のぞみの隣で紅が「げ」と変な声を出した。
「……紅さま?」
一方で、母子は久しぶりの再会を喜び合っている。
おゆきがスーツケースを傍に置いて、ふぶきを抱きしめた。
「ふぶき、いい子にしてた?」
「うん! 母上、バカンスは楽しかったか?」
「ふふふ、のんびりしたよ。寂しかった? ごめんね」
おゆきはふぶきをひとり置いていったことを詫びている。
でもその母親の言葉に、ふぶきは首を振った。
「ううん。寂しくなかった。ふぶき保育園に行ってたから」
「え? 保育園?」
その言葉におゆきがマスカラの目をパチパチさせる。
ふぶきがおゆきのふわふわの髪の中から、のぞみと紅を振り返った。
「うん。あそこにいるのが先生じゃ」
「……まずい」
紅が呟いて、口元を手で覆う。
それを不審に思いながらも、のぞみはおゆきに向かって頭を下げた。
「あやかし保育園の保育士をしておりますのぞみと申します。お母さんがご不在の間、ふぶきちゃんをお預かりしておりました。ふぶきちゃん、もうすっかり園に馴染んで、お友達もたくさんできたんですよ」
おゆきは唖然としながら、のぞみの言葉に頷いて隣の紅に視線を移す。
そして心底驚いたように声をあげた。
「紅さまじゃん!」
紅が万事休すといった様子で目を閉じる。
のぞみはびっくりして彼を見た。
「そういえば、保育園やってるって噂聞いたかも! あれマジだったんだ! ウケる!」
おゆきはカラカラ笑いながら、カツカツとハイヒールを響かせてこちらの方にやってくる。
そして気まずそうに腕を組んで視線を逸らしている紅の肩をバシバシ叩いた。
「保育園って、子どもを集めて遊ばせるんだよね。なんでそんなことしたいのか私にはわかんないけど。なに、ふぶきも行ってたの? ウケる!」
そう言っておゆきはまた笑う。
ふぶきが彼女のドレスの裾を引っ張った。
「おもしろいところじゃ。ふぶきは好きじゃ」
「へぇ、ならよかったじゃん。狐が子どもを集めて子育てするのと一緒かな」
紅がゴホンゴホンと咳払いをした。
「せっかく母親が帰ってきたんだ。水入らずの方がいいだろう。のぞみ、帰るよ」
そう言ってそそくさと退散しようとする。
それをおゆきが止めた。
「なんで? まだいいじゃん! 超久しぶりなんだからさ。ゆっくりしていきなよ。ふぶきの保育園での様子も聞きたいし」
ふぶきの様子を聞きたいという彼女の希望は、母親としては当然だ。
でもそれにしても紅の様子が変だった。
まるで悪事が見つかったかのように、そわそわとして、落ち着かない。
保護者としてのおゆきの要望にも、首を振る始末だった。
「いや、忙しいからそれは無理だ。ふぶきの保育園での様子はふぶきから聞いてくれ」
無茶苦茶なことを言っている。
のぞみはふぶきを預かるより以前のことを思い出す。
そういえば彼はそもそもふぶきを預かることに前向きでななかった。
『あのおゆきが働くはずがない』と言っていたのだ。
あれはふぶきが大神の子どもだからだとのぞみは思っていたけれど……。
おゆきがつまらなそうに口を尖らせる。そしてついに、のぞみが知りたいことの核心を口にした。
「冷たいなぁ、それが元カノに対する態度?」
やっぱり‼︎
のぞみはじろりと紅を睨む。
そののぞみの視線から逃げるように、紅慌てて口を開いた。
「と、とにかく、私たちは忙しいんだ。早く帰らないと……!」
その彼に、のぞみは憮然として呟いた。
「……蛇娘さんの言う通りだった」
「え? 蛇娘?」
紅がぴたりと動きを止めて首を傾げる。
その姿にのぞみの頭のはムカムカとした怒りの感情でいっぱいになった。
そして彼を睨みつけた。
「男の人は都合の悪いことは黙ってるって話です‼︎」
紅がのぞみの手を取った。
「つ、都合の悪いことではなくて、言わなくていいことは言わないだけなのだよ。のぞみを余計なことで不安にさせたくないからね。優しさというか、思いやりというか……」
あわあわと言う紅の言葉は、のぞみの心にまったく響いてこなかった。
「そんな思いやり、いりません! だいたい紅さまはいっつも……!」
その時、おゆきが弾かれたように笑い出した。
のぞみは驚いて口をつぐむ。頭に血が昇って彼女がいることを忘れていた。
おゆきは心底おかしいというように手を叩いてひとしきり笑ったあと、目尻の涙を拭きながら、のぞみに向かって口を開いた。
「あんた紅さまの今カノ? 人間だよね? 人間は過去を気にするって本当だったんだ‼︎ だったら、ムカつくよね。ごめんごめん! にしても紅さまのその慌てた顔!」
そしてまた笑い出す。
唖然とするのぞみの肩に手を置いて、おゆきがクリスタルのような透き通る瞳でジッとのぞみを見つめた。
「あ、あの……」
「あんた、ちょっと地味だけどかわいいじゃん‼︎」
あっけらかんとしたその彼女にのぞみは唖然としてしまう。
ふぶきがまたドレスの裾を引っ張った。
「のぞ先生じゃ、母上」
「のぞ先生ね。のぞ先生、安心してよ。付き合ってたっていってももうずっと前のことだし。ずっと会ってなかったし」
そう言っておゆきはニカッ笑う。
のぞみは彼女のペースに呑み込まれてゆくのを感じながら、こくんと頷いた。
「……はい」
とりあえず、保護者のひとりが園長の元カノで、その園長は保育士のひとりと婚約中などという人間の世界だったらこの上なく気まずい状況は、あまり問題にはならなさそうだ。
それどころかおゆきはふたりの関係に興味深々だった。
「で? ふたりは付き合ってどのくらい? 結婚は?」
その疑問に、紅がため息をついて口を開いた。
「大神に邪魔をされていなければ、もうとっくに夫婦になっていたはずだよ」
「ちょ……! 紅さま‼︎」
のぞみは慌てて彼の袖を引っ張った。
大神さまに邪魔されて結婚できないのは事実だが、それを話してしまうのはいくらなんでも具合が悪い。
なにせ目の前にいるおゆきは他でもない大神の妃なのだから。
「え? 大神さまが?」
おゆきが首を傾げた。
「結婚の許しをもらいに行ったら、のぞみは自分の妃にしたいと言い出したんだ。まったくなにを考えているのやら……」
のぞみが止めるのも聞かないで、紅はぺらぺらとすべての事情を話してしまう。
恐る恐るおゆきを見ると彼女は「そうなんだ」と呟いて、眉を寄せてのぞみを見た。
「のぞ先生」
「はい……」
のぞみはごくりと喉を鳴らす。真剣な彼女の視線が怖かった。
きっとおゆきはのぞみを不快に思ったに違いない。
罵倒されるか、あるいは冷たい言葉をかけられるか、どちらかだろうと予想して、のぞみは思わず身構える。
でも彼女から出た言葉は、そのどちらでもなかった。
「どうして大神さまの妃にならないの?」
「は?」
意外すぎる問いかけに、のぞみはそう声を漏らしたままそれ以上は答えられない。
そこへおゆきはたたみかけた。
「だって大神さま、サイコーだよ。紅さまより絶対いい! 妃になれるなんてめちゃくちゃ幸運なんだから!」
なにを言ってるんですかと言うこともできないで、のぞみは目を白黒させる。
そののぞみの手をふぶきが引っ張った。
「のぞ先生、お父上のお妃さまになるのか? なら御殿で一緒に住めるんじゃな。嬉しい‼︎」
「ふぶきがここまで懐くなんて滅多にないよ。いいじゃん! 妃になれば! ふぶき、部屋は近くにしてもらおうね!」
母子は勝手に盛り上がる。
それに紅が待ったをかけた。
「待て待て待て! のぞみは大神の妃にはならない。今私たちは大神がのぞみを諦めるのを待っているのだよ‼︎」
「あ、そうか」
おゆきが目をパチクリとさせる。
「そうだとはじめから言ってるじゃないか!」
紅の言葉にふぶきが残念そうにのぞみを見上げた。
「のぞ先生、お妃さまにはなってくれぬのか?」
「ふぶきちゃん……」
そのキラキラの瞳に、のぞみの胸がきゅんと鳴った。
「ごめんね。でも保育園に来てくれたら毎日会えるから……」
「のぞ先生」
今度はおゆきがのぞみの腕をガシッと掴む。
そして真剣な眼差しにたじたじになるのぞみに向かって言い聞かせるみたいに話し始めた。
「いい? 男は権力だよ。夫婦になるなら権力のある男を選ばなきゃ。大神さまはそういう意味でサイコーだよ。いちいちぞぞぞを取りに行かなくても、ここでは毎日召使いがぞぞぞを運んでくる。今年のバカンスは北極オーロラツアーだったんだけど、妃の私はどこへ行ってもビップ扱い。紅さまなんて相手にもならないいよ。ね? 大神さまにしときなって!」
またもや意外すぎるおゆきの言動に、のぞみの頭はもうついてゆけない。
混乱しながら、とりあえずの疑問を口にした。
「お、おゆきさんは、大神さまが別の妃さまをお迎えしても平気なんですね……?」
「平気平気! 妃の数が多いのは権力がある男の証なんだよ!」
カラカラとおゆきは笑う。そして残念そうに紅を睨んだ。
「紅さまも力は強いよ。もしかしたら大神さまと同じくらいかも。きっと本気になったらこの御殿と同じくらい大きな御殿を建てて、たくさんの女を妻にできる。でも野心がないんだよ。縄張りも田舎だし……。だから私は別れたの。ね? のぞ先生、悪いことは言わないから私の言う通り……」
「ダメだと言ってるだろう? ……だからおゆきとのぞみを会わせるのは嫌だったんだ」
ため息をついてそう言って、紅はおゆきからのぞみの手を奪い取った。
「のぞみ、帰るよ。そろそろ本当に時間がなくなってきた」
それを無視してのぞみはおゆきに呼びかけた。
「おゆきさん」
「ん?」
紅の元カノという事実はさておいて彼女自身は悪い人ではなさそうだ。
もしかしたら味方になってくれるかもしれない。
「私、どうしても大神さまのお妃さまにはなれないんです。大神さまが諦めてくださるような、いい方法はありませんか?」
懇願するのぞみに、おゆきは眉を上げてから、口元に手をあてて考えこんだ。
「諦めてもらう方法ねぇ……」
その時。
ダダダダダと廊下を走る音がこちらに近づいてくる。
紅が咄嗟にのぞみを背中にかばった。
皆が注目をする中、バンッと開いた扉の先、青い顔して立っていたのは伊織だった。