物事は一度そうだと思い込んでしまったら、なにもかもがそのように見えてくるものなのかもしれない。
 こづえは否定したけれど、紅がマリッジブルーだという考えは、のぞみの頭の中を支配した。そしてそのような目で見れば、彼の言動のすべてが疑わしく思えた。
『大神を説得するなんて無理な話さ。どれだけ時間がかかっても私の気持ちは変わらないよ。安心して、のぞみはなにも心配することはないんだから』
 優しいはずのそんな言葉でさえも、まるで誤魔化されているように感じてしまう始末だった。
 もしかしたらずっとこんな日々が続いて、結婚なんて永遠にできないのではないだろうかとのぞみは思い始めていた。
 そんなある日。
「紅さま、明日はふぶきちゃん来てくれるでしょうか」
 一日の終わり、保育園からアパートまでの道のりをのぞみと紅は手を繋いでゆっくりと歩いている。
 虫の声が耳に心地いい夜だった。
「うーん、どうだろう? 気が向いたら来るとは思うけど」
 紅が首を傾げながら答えた。
 ふぶきが三日連続で保育園を休んでいるのだ。
 伊織から体調が悪いわけではないと連絡を受けているから、とりあえずは安心しているが、だったらなおさら欠席の理由が気にかかる。
 そしてその理由にのぞみは心あたりがあった。
「かの子ちゃんが、すっかりしょげちゃって……」
 そう言って、のぞみは眉を下げた。
 ふぶきが休みはじめる前の日の終わりに、かの子とふぶきがケンカをした。
 理由は子ども同士ならよくあるようなとるにたらないことだ。
 どちらが悪いともいえないようなケンカだったけれど、とにかく仲なおりをする前に、ふぶきの迎えが来てしまって、そのまま彼女は帰ってしまったのである。
 かの子とふぶきは、もう親友といっていいくらいに仲よしになっていたから、かわいそうにかの子は目に見えて落ち込んでいる。
 もちろん欠席の理由がケンカだとは限らないけれど……。
「どうして来てくれないのかな、紅さま伊織さんに聞いてみてくれました?」
 あやかし園では保護者からの連絡は紅に直接伝えられる。
 おそらくはあやかし同士でしか通じないような方法なのだろう。それは仕方がないけれど、保育士としては直接親御さんに伝えられないことに、もどかしく感じる時もある。
「うん、やっぱりかの子のことで少しヘソを曲げてるようだ。でも時間がたてば来るんじゃないかな。まぁもともとふぶきはどうしても保育園に来なくてはいけないというわけでもないし……」
 なんでもないことのように紅は言う。
 でものぞみは彼ほど楽観的には考えられなかった。
「でもそれじゃちょっとかの子ちゃんがかわいそうです。ふぶきちゃんも。たぶん直接話をすれば、すぐに仲なおりできるはずなんです」
「まぁ、そうだろうね」
「あんまり長引くとこじれちゃうんじゃないかな」
 呟いて、のぞみは少し考えてから、思い切って紅に問いかけた。
「私が直接会いに行くというのはダメでしょうか」
「え?」
 姫として育てられたふぶきはきっとケンカをした時の仲なおりの仕方がわからないのだ。でも彼女は素直な子だから、ちゃんと話をすればすぐに仲なおりできるはず。
「一日お休みをいただくことになっちゃいますけど、直接会ってふぶきちゃんにかの子ちゃんの気持ちを伝えたいです」
 紅が信じられないというように眉を寄せた。
「のぞみ。ふぶきは御殿にいるんだよ」
「それはわかっています」
「いや、わかっていない。わかっていたらそんなことを言うわけがない。御殿でどんな目にあったのか忘れたの?」
 彼にしては珍しい少し厳しい口調に、一瞬のぞみは怯んでしまう。
 でも考えは変わらなかった。
「わ、忘れたわけではありませんが、今回はふぶきちゃんの先生として行くのです。それとこれとは別ということで……」
「そんなの向こうに通じるわけがないじゃないか。ダメだ、危険すぎる」
 にべもなく言う紅に、のぞみはカチンときてしまう。
 人間ののぞみにできることなどなにもないと言われているような気がした。
 彼の言うことはもっともだ。危険なことくらいわかっている。それでものぞみは行きたかった。
 あやかしではない自分は彼にふさわしくないという思いがずっと胸の中に燻り続けている。
 人間ののぞみにできることなどなにもない。
 だとしても、いやだからこそ、あやかし園の先生としては少しは役に立っているのだと思っていたかった。
 そしてその役割をなんとしてもまっとうしたい。
 そうしなければ、もう自分はあやかし園にすらいる価値がないようなそんな気にまでなってしまって、のぞみは紅の言葉に素直に頷くことはできなかった。
「ちょっと行って、話をするだけです。御殿は広いですから大丈夫ですよ」
「のぞみは……」
 紅がため息をついて呟いた。
「……本当に子どもたちが第一なんだね」
「え?」
「いや、なんでもない。でもそれは無理だよ、のぞみ。あそこにいるあやかしは皆奴の息がかかったあやかしだ。伊織だって御殿ではのぞみの味方にはなれない。すぐに大神に見つかってしまう」
「だったら好都合です」
 少しやけっぱちな気持ちでのぞみは言う。
「私から直接大神さまに話をします。結婚はできませんけど、ぞぞぞなら差し上げられますよって」
「のぞみ、それはダメだと言っただろう」
「どうしてですか⁉︎」
 繋いだ手を少し乱暴に振り解き、のぞみは彼を睨みつけた。
 彼のこの事なかれ主義にはうんざりだ。
「危ないなら紅さまが一緒に来てくれればいいじゃないですか」
 一緒に大神を説得して、今すぐに私たちは結婚すると宣言して、のぞみを安心させてほしい。
 半ば祈るような気持ちでのぞみは彼の答えを待つ。
 だが彼の口から出た言葉は、期待通りのものではなかった。
「ダメだ。それでも危険なことには変わりないからね。ふぶきの件は伊織によく伝えておくから。……のぞみ?」
 なだめるようにでもきっぱりと紅は言う。
 のぞみはそれに返事をする気にもなれなくて、くるりと彼から背を向けた。