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ブーッと、ポケットに入れていたスマホが振動した。大学の友達が泊まりに来ていて、一緒に餃子を作っている最中のことだった。
布巾で手を拭き、ポケットからスマホを取り出す。メールの赤い通知マークが付いている。
「メールだ」
「叔母さん?にっちゃんのこと常に心配してるし」
にっちゃんというのは、大学に入ってから付けられたわたしのあだ名だった。西本やえの頭文字を取るなんて、少し斬新だなと思った記憶がある。
「いや、多分何かのメルマガ───……」
画面を開き、言葉を失った。不自然に言葉が途切れ、そのまま全身の力が抜けたようにその場にしゃがみ込む。
日之出綺。
今、メールを送ってきたのは、日之出綺だ。いつ見ても美しく、インパクトのある名前。忘れることなど、できるわけが無い。
「にっちゃんー?」
友達の声は右から左へと流れていく。震える手でメールを開いた。どくんどくん、心臓がざわめいている。こんなにも早く脈を打つ感覚は、きっと後にも先にも今だけなような気もした。
【突然の連絡でごめん。これが最後の連絡にします】
そこにあった長い文章を、一字一字逃さないように丁寧に追っていく。
正しく息をしていたかすら定かではなかった。その間、友達がわたしになんて声を掛けていたかも分からない。
「にっちゃん?」
「……っ、」
「え……な、なんで泣いてるの、待ってどうしたのにっちゃん」
数分かけてメールの文章を読み終えたわたしは、泣いていた。次から次へと溢れる涙を、友達が慌ててティッシュで拭ってくれる。
優しい人が、そばに居てくれたことに心から感謝した。
そこには、空白の5年に留まらず、綺が抱えていた感情全てが記されていた。
綺麗なものだけじゃない。言われるまで知らなかった 綺の黒い感情も、後悔も、全部だ。
この文章を打つのにどれだけ時間をかけたのだろう。どんな気持ちで連絡先からわたしの名前をタップしたのだろう。
綺にとって、名前を見ることすら苦しいはずのわたしと向き合うことは───どれほど勇気のいることだったのだろうか。
「返信……しないの?」
「しない……、しちゃダメなやつだと思うから」
返事をしたら、綺は優しいから、きっとまた余計な気を使わせてしまう。
届いたよ。綺の気持ち、ちゃんと届いた。欲を言えば、目を見て言葉を交わしてさよならをしたかったけれど、それでも良い。
綺だって、言わないだけでセンサイだったみたいだ。気づけなくてごめんね。長い間、苦しい思いをさせてごめんなさい。
もう平気だよ。今のわたしは、誰かの優しさに甘えなくてもちゃんと生きていけるから。
「全然 大丈夫っ、!」
ズビッと鼻をすすり、ゴシゴシと目を擦る。きっと今のわたしは目も鼻も真っ赤になっているんだと思う。
苦しいし、寂しいし、辛いけど、でも。
「餃子作ろ!」
「えぇん……にっちゃん無理しないでよ……?」
「無理じゃないよっ!大丈夫大丈夫!あーお腹減ったー!」
わたしにはわたしの今がある。
餃子を一緒に作ってくれる友達も出来たし、根拠の無い「大丈夫」を、自分自身に向けるくらいの心も持っている。
貴方が居なくても、わたしはもう大丈夫。
もうこの先、綺とは会うことも話すこともないけれど、どうか健康で穏やかな日々を過ごしていることを、陰ながら祈っているから。
今までたくさんごめんね、たくさんありがとう。
「にっちゃんが言うなら深くは聞かないけどぉ……よーし!いっぱい食べて泣いちゃうようなことは全部取っ払おう!」
「よーし!お肉いっぱい詰めちゃおっ」
「いいねいいねっ!こっちはイカタコ入れちゃう」
「海鮮餃子!最高!」
────さよなら、どうか元気でね。
こい〔こひ〕【恋】
1 特定の人に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。「恋に落ちる」「恋に破れる」
2 土地・植物・季節などに思いを寄せること。
「明日香川川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき―にあらなくに」〈万・三二五〉
cf.デジタル大辞泉
「あーあ、恋したいなぁ」
金曜日の夕暮れ時───放課後の教室にて。
冬期休暇が着々と近づく12月半ば、窓からグラウンドを見つめていた杏未は、紅茶をひとくち啜り、ため息交じりにそんな言葉を落とした。
つられるように視線を向ける。窓の外は雪が降っていて、グラウンド白い膜ができていた。
寒い中グラウンドを走る陸上部の姿やマフラーやコートに身を包み、お互いの温度を共有するように素手を重ねて歩くカップルをとらえ、青春だな、と心の中で思う。
「冬ってやっぱ人肌恋しくならない?センチメンタルっていうかー」
「んー…まあ、わかるかも」
「だよねぇ。はぁ、良い人いないかなぁ」
窓の外。見るからに冷たそうな白い世界から目を離し、机の上に広げた数学のワークに視線を落とす。
世界は今日も忙しない。
私と杏未が放課後、こうして誰もいない教室で景色を眺めている間にも、勉強や仕事に追われている人がたくさんいるのだ。
あっという間に冬が来た。私と杏未が駅前のカフェで泣きながら話をしたのは太陽が照り付ける夏場のこと。放課後の教室に通うようになったのは、紅葉が散り始める秋の終わりのこと。すっかり変わった景色を見て、少しだけセンチメンタルな気分になる。
杏未の言う通り、冬は、そういう季節みたいだ。
杏未は、推薦入試で無事進学先が決まり、春から隣の県で一人暮らしをすることになっている。
センター試験や一般入試を受ける予定の同級生はこの冬からが勝負時なのに対して、推薦組は時間に余裕があるので、杏未とは以前より会う時間が増えた。
一方私はというと、学校に行きたいという旨を母に話し、ふたりで一緒に学校に出向き、担任の先生と三者面談をした。
3年間のうちの半分以上不登校を続けていたので、出席日数をはじめ、卒業に必要なものが諸々足りていないらしく、予想していた通り、留年は免れないみたいだ。
来年からもう一度3年生を1からやるか、もしくは通信制の高校に転入するという方法もありますと言われ、私は迷わずこの学校でやり直すことを選んだ。
当然のことながら杏未は卒業してしまうし、1つ年下の人たちと授業を受けるのは多少の居心地の悪さを感じるけれど、中学生の私が行きたくて選んだ高校がここだったから、同じ場所でやり直したいと思ったのだ。
名前ばかり在籍していた3年生のクラス担任は、現代文の授業を受け持っていた人だった。
温厚で優しそうな雰囲気が漂うおばあちゃん先生で、受験が本格的に始まって多忙な時期なはずなのん、突然「学校に復帰したい」と言い出した私にも丁寧に対応してくれた。
「言いたくなかったら言わなくてもいいです。どうして、学校にもう一度来たいと思ったんですか」
三者面談の時、先生は私にそう言った。当然である。ネットで少し調べたけれど、小学校・中学校と違い、高校で不登校になると復帰が難しいらしい。
部活等をやっていた生徒だと尚更、留年することに抵抗がある人もいるとかで、そのこともあって通信制の高校も案として出してくれていたようだ。
どうしてもう一度学校に来たいと思ったか。
想像できる困難や周囲の目より、想像で心躍るような青春の方が多かったから。自分で避け続けていたきらめきを、もっと近くで感じたかったから。
私の好きなようにしてよいと見守ってくれる家族と、一緒に泣いたり笑ったりしてくれる大切な人が背中を押してくれたから。
───だから、
「今の私なら、頑張れる気がしたんです」
名生 蘭。あんたは、私は、絶対大丈夫。味方がたくさんいる。立ち止まる勇気を持っている。誰かにとっての救いにもなっている。だから大丈夫。夜を越えて、朝が来ても、名生蘭は大丈夫だからね。
呪文のように「大丈夫」と唱えて無理やり自分を認めてようとしていた頃より、ずっとずっと自分の「大丈夫」に自信が持てるようになった。
休んでいる間の学習について訊かれた時のためにと、引きこもっていた頃に毎日書いていた読書感想文を数枚持ってきていたので、現代文の先生だし、と気まぐれで提出すると、「あなたはとても素敵な人です」と言って、先生は微笑んだ。
それだけで、掬われたような気がした。
学校には、春休み明け──新年度から通うことにした。その方が区切りも良いし、交流関係も築きやすいのではないかと提案されたのだ。
かわりと言ってはなんだが、今年度のうちはざっと高校生の勉強を振り返ることができる参考書を買って勉強することを勧められた。
異論はなかったので、三者面談はその言葉に頷いたところで終了した。