どうせなら自分じゃ買わないような高いアイスを買おう。ハーゲンダッツをひとつ買っても余る値段だし……真夜中さんにもおすそ分けしようかな。
「菩薩くんのところでも行くんすか」
クッキー&クリーム味のハーゲンダッツをふたつ持って再びレジに向かった。ピッとバーコードをかざしながら、真夜中さんが問う。
「まさか。この一個は真夜中さん用です」
「え」
「あげます。いつも相談乗ってくれてるんで」
「つってもおれ、半分くらいちゃんと聞いてないっすよ」
「聞き捨てならないですね」
「ジョークです。お会計、544円です」
「……あ、44円貸してください」
「ばかやろうっすね。算数からやり直しましょう」
ふはっと軽く笑われる。
「ちなみに、この50円返そうとかは思わなくていいっすからね。おれも一応大学生だし、年下の女の子に50円返せよ!とか言ってたらダサいじゃないすか」
ポケットから50円取り出した真夜中さんが私の心を先読みして言うものだから、お言葉に甘えて「ありがとうございます」とだけ言った。
仕事中かどうかは、22時を過ぎたこのコンビニではさほど重要なことではない。
しかしながら、イートインスペースに二人で座り、ハーゲンダッツを食べる22時25分は、とても不思議な時間だった。
「あの、おれ、考えることがあって」
「はい」
「彼女と別れようかなって」
真夜中さんがぼんやりと店内の蛍光灯を見つめている。悩みであるはずのそれは、既に答えが決まっているようにも聞こえた。
そういえば、初めて真夜中さんと話した時に、彼女とはよく分からないまま付き合っているって言っていたような気がする。真夜中さんは私を見ていると元気が出て、漠然と勇気を貰えるとも言っていた。
変わる勇気すらないと呟いていた真夜中さんも、この2ヶ月の間で 変わるために動いているみたいだ。
「いいんじゃないですか。……知らんけど」
不明瞭な言葉でも、漠然とそれが時に背中を押す材料になる。
真夜中さんの未来がどう変わるかは、私は何も知らないけれど。それでも、少しでも勇気に繋がるのなら、私は真夜中さんにとって意味のある存在になれたのかとも思うのだ。
「ふは、ありがとうございます」
「どういたしまして」
私は、まんざらでもない返事をした。
しゅうし‐ふ【終止符】
1 欧文などで、文の終わりに打つ符号。ピリオド。
2 音楽で、曲の終わりを示す符号。
3 物事の終わり。結着。結末。
cf.デジタル大辞泉
「あら、今から行くの、綺」
玄関でスニーカーを履いていると、母にそう声をかけられた。耳だけを傾け、「うん」と短く返事をする。
日曜日の19時。夕飯を食べ、全ての食器を片付け終えた後のことだった。
「門限までには帰るのよ」と相変わらず世話焼きな母が付け足す。高校3年生、18歳の息子にかける言葉にしては、少しうざったい言葉のような気もする。
しかしながら、そんな母に慣れてしまった自分もいて、目は合わさずもう一度「うん」と返した。
一般的な家庭の普通は分からないが、俺の家はとても標準的だった。
少々世話焼きな母と温厚な父、それから2つ下の大人しい妹。
標準的だからこそ、俺が深夜に外に出ていることに気づいた時、母はとても心配した。父は綺麗な星空が見たかった、といい本音と嘘の混ざった俺の言い訳を否定することも肯定することもせず、「門限は21時半だぞ」と言った。妹は、「誕生日プレゼント」と言って家庭用プラネタリウムをくれた。
優しく温かい家だと思う。
とても恵まれていたと思う。
蘭に会えない日が続いた時はどうしようかと思ったけれど、思い切って夜をともに越えたい人がいる話をしたところ、21時半までに家に帰るという条件下であれば良いと言われた。
母は、会ったこともない蘭のことをやけに心配していて、「優しくしれあげなさいね」と言った。父は、大切にした人を大切にしたいときに大切にしろと言った。妹は、「今度顔見せて」と言った。
家族の理解もあり、蘭と会うことは、俺の生活の一部になった。太陽が出ている時間に会うことも増え、蘭と過ごす時間の使い方のキャパが拡がり、藤原ちゃんとの交流も含めてとても有意義な日々が続いていた。
「気を付けてね」
「おう」
今日もいつも通り、公園で待つであろう蘭のもとに向かうつもりでスニーカーを履いた。かかとを2回鳴らし、ポケットにスマホと財布が入っていることを確認してドアノブに手をかける。
すると、「あぁ、」と思いだしたように母が口を開いた。
「そういえばねぇ、この間買い物に行ったときにあの子のこと見かけたわよ」
「あの子?」
「えぇと……名前が、えーっと…ほら、いたでしょう、鬱になっちゃった子」
どくん。穏やかに脈を打っていた心臓がざわめきだす。
動きを止めて、振り返る。母は事情を何も知らない。「優しくしてあげてね」と、呪いのような言葉をかけたことさえも、もしかしたらもう覚えていないかもしれない。
鬱になっちゃった子。俺が中途半端に優しくして、手離したあの子だ。
忘れもしない──忘れることすら、出来ない。
「……やえ」
「ああ、そう、その子。今、大学の近くで一人暮らししてるみたいよ」
やえ。名前を聞いただけで、5年間封印していた罪悪感が一気に放出された気分になる。
母がやえと会ったのは人通りの多い駅前だったとのことで、この辺りに住んでいるわけではない事実にほっとした。
「大学入ってからは身体の調子も良いんですって」
「……ふうん」
それは、やえの心に寄り添える人がそばにいるからだろうか。やえに余計な不安や心配を与えないほどやえのことを1番に考えてくれる人を見つけたから、心が穏やかなのだろうか。
ばったり会ってしまったら、俺は何をどう謝っていいかわからない。5年前で、俺の中で情報が止まっているのだ。
俺はやえを救えなかった。最後まで優しくできなかった。誰かに心配されてばかりいるやえのことを羨ましいとすら思っていた。
俺はそういうやつだ。母がやえと遭遇したという話を聞いてから、動悸がおさまらない。
どうにもできない後悔に押しつぶされてしまいそうだった。
「懐かしいわねぇ。親戚の方は今も同じところに住んでいるって話よ。『綺は元気ですか』って。やえちゃんって、あんなに話す子だったかしらねぇ」
「……さぁ」
「ほら、せっかくだし連絡先してあげればいいじゃない。会いたがってたわよ。あぁ、やえちゃん番号とか変えてないって──」
「いいって、そういうの」
会いたがっている?やえが?俺に?
綺は何も変わってないね、変わろうともしてないね。
聴こえるはずのない音が聞こえる。
やえはきっと、俺のことなんか嫌ってるはずだ。
無理だ、俺には。やえには会えない、会いたくない。俺はまた、逃げることしか選べない。
「俺、もう行くわ」
「え?あぁ、行ってらっしゃい」
母に背を向け、俺は足早に家を出た。
*
季節は移ろい、紅葉が咲き誇る10月上旬になった。今日は日曜日で、私はというと、18時過ぎまで杏未と一緒に図書館にいた。
図書館は良い建物だと思う。開館時間は早いし、年中無休。いつ訪れても快適な気温で過ごせる。学生のテスト期間でなければ人はそう多くない。
夏までは週に1度の杏未とカフェや喫茶店に行ったり、一緒にでかけたりしていたけれど、しがない高校生と不登校少女が週に何度もおいしいものを食べれるほど金銭的に余裕があるわけもなく、文化祭が開けたあたりからは図書館で週に2度、会うようになった。
お金がかからないという意味でも、図書館は学生に優しい場所だった。
杏未と別れ、その足で公園に向かった。言わずもがな、綺と会うためだ。
夏とは打って変わり、日が落ちるのが早くなった。17時でも辺りは薄暗くなっていて、18時にもなればあっという間に夜が来る。
今日もぼんやりとベンチに座り、たわいない話をしながら星を眺める時間が来るのだとばかり思っていたから、19時過ぎに公園にやってきた綺が、どことなく元気がなくて私は少し動揺していた。