「……綺、焦らなくていいよ」
「え?」
「どうにもできないことって、あると思うから。だから、焦らなくていい」
私は、弱いきみも強いきみも、ぜんぶ受け止めたいと思うのだ。
「私は綺が何を抱えてるのかとかわかんないから、凄く無責任になっちゃうかも、しれないんだけど。でも、でもね。必ずしも過去と向き合うことが必要だとは思わない、から。話せる時が来たら、その時は全力で聞くけど、一生言わないままでもいいし。無理して変わらなくたっていいんだよ」
立ち止まることもまた勇気。自分の無理な範囲を自分で感じて逃げることも時には必要なのだ。立ち止まって休むことは、誰かに非難されるようなことではない。
空っぽで、変われずに夜の徘徊を続けるどうしようもない私に、いつかの真夜中さんが教えてくれたこと。それは私だけに言えることではない。
「……だから、大丈夫じゃないのに『大丈夫』なんて言わないでよ」
綺のやさしさに、もう苦しさは感じたくはなかった。
「綺は私に、苦しい時とか悲しい時はそう言って欲しいって言ったけど……、私も綺に同じこと言う。無理なことは無理なままでいいと思う。杏未が手紙を出してくれなかったら私は今も立ち止まったままだった」
「…そんなことねーよ」
「綺が可能な限り平和な世界の中にいてほしいんだよ」
これを恋とは、私はまだ呼ばないけれど。それでも、綺が私にとって大切な人であることに変わりはないから。
何の事情もわからないけれど、それでも綺には、これからを平和に生きていてほしいのだ。
「……ありがと、蘭」
「うん、いいよ」
「やっぱ、好きだ」
自分の気持ちを確かめるみたいに、綺の独り言のような告白がぽつりと落ちる。
星が、とても印象的な夜だった。
わが‐まま【我が×儘】
[名・形動]自分の思いどおりに振る舞うこと。また、そのさま。気まま。ほしいまま。自分勝手。「我が儘を通す」「我が儘な人」
[連語]《代名詞「わ」+助詞「が」+名詞「まま」》自分の思いのまま。
「―に誇りならひたる乳母の」〈源・常夏〉
cf.デジタル大辞泉
「───え、文化祭?」
8月中旬、昼下がり。
家から歩いて数分のところにある公共図書館で落ち合わせた私に、杏未は首をこてんとかしげて可愛らしく言った。
一般的に高校3年生というのはとても大事な時期。
杏未は隣の県の大学から推薦枠で受験するらしく、勉強時代はさほど大変ではないが面接練習などで、夏休みも学校に行く機会が多いと言っていた。
そんな中で時間を合わせて私に会いに来てくれている。週に1回程度会うように提案してくれたのは杏未だった。「蘭ちゃんとの時間、大切にしたいから」と照れくさそうに言うから、私までつられて照れくさくなった。
夏休みということもあり、図書館の中は学生の姿が多く見られた。
しかしながら、同じ高校に進学した同級生は私と杏未しかいないということもあり、中学校の学区内にある図書館を利用する人の中に、記憶にあるクラスメイトや知り合いの姿は確認できなかった。
「う、うん。…蘭ちゃんの予定と、余裕があったら……一緒にどうかなって」
わが校は、毎年8月末に文化祭がある。夏休みが開けてすぐのイベントで、1年生の時も生徒全員が目まぐるしくバタついていたような記憶があった。
もちろん利点もあって、後夜祭でパフォーマンスをする人たちは夏休みという長い時間を使って多く練習時間を確保できたり、私服で登校できるなどの文化祭準備のための特別ルールも設けられたりするのだ。
例年、夏休みから文化祭にかけてカップルが多く誕生しているという噂も、1年生の時に小耳にはさんだことがあった。
「もちろん、無理にとは言わないよ。でも、……蘭ちゃんと、もう1回文化祭回りたくて」
杏未が肩を縮めて俯いた。
もしかしたら、夏休み中に何度も言おうとしてくれていたのかもしれない。勇気をふりしぼって私にそう提案してくれたと思うと、それだけで感情が込み上げてきた。
不登校になってからというもの、私は家と公園を行き来するばかりで外の世界を知らなかった。
綺とは夜に限らず夕暮れ時の公園で会うようになり、杏未とは週に一度、家の近くの喫茶店やファストフード店で会うようになった。
1年以上殻に閉じこっもていた私にとってはかなりの快挙である。
外の空気に触れる機会が増えてから、前より朝に感じる絶望や昼間に襲う劣等感のようなものが薄れたような気もするのだ。
杏未から貰った手紙の中に、マイとシホとは離れることにした、という情報が書いてあった。
私が不登校になったのが2年生の4月。それからちょうど1年──3年生になり、マイとシホとはクラスが離れ、そのまま流れるように疎遠になったそうだ。
2年生の時は、私が学校に行かなくなってからもある程度の行動は一緒にしていたようだけど、美術の授業で、華道部の木村さんとペアでスケッチをしたことをきっかけに徐々にマイたちのグループから距離を置いていたらしい。
杏未はその話を「木村さんとペアになった偶然に頼っちゃっただけで、わたしはやっぱり度胸が足りないんだ」と話していたけれど、きっかけなんてそんなものだと思う。
私だって、きっかけがなかったらこうして外には出ていなかった。
私を諦めないでいてくれた母にも、私を忘れずにいてくれた杏未にも、常連認定してくれた真夜中さんにも、ただ超えるだけの夜を好きにさせてくれた綺にも、感謝してもしきれない。
偶然を味方につけることは、なにも悪いことではないと、私は思っている。
……とは言え、「学校」に関連すると問題は杏未との間にあった問題とはまた別の問題が発生するわけで、だ。
杏未の学校の文化祭に行く───それはつまり、マイやシホに会う可能性もあるということになる。
それ以外にも、1年生の時に同じクラスだった同級生たちと顔を合わせることは避けられない。
皆が皆、マイやシホのように私のことを疎ましく思っていたとは思わないけれど、たとえば私が文化祭に行ったとしたら、今更来たのかよ、と思う人だっているはずだ。
散々学校に行くことを拒否したのは私で、そのまま時間が流れてしまったことはもう変えようがない事実。
もっと言えば、同級生は皆 当たり前のように将来に向けて歩いているわけで。不登校歴1年半の私は、もしかしなくても日数が足りなくて留年コース。
同級生は同じだけの年数を生きているのに、人生の進捗は私ばかりが滞っている事実を目の当たりにすることが、私はとても怖かった。
「あ、あの、蘭ちゃん。…無理はしなくていいの、わたしのワガママだから」
「あ…えっと、……ごめん。ちょっと考えてもいい?」
「ううん…!いいんだよ、本当に!学校じゃなくても、楽しいイベントっていっぱいあるもん。だから全然気にしなくていいからね…!」
曖昧で煮え切らない返事をすることしかできず、せっかく誘ってくれた杏未には、どうしようもない申し訳なさが募る。
図書館の中は冷房が効きすぎていて、つめたすぎる空気がどこか今の私と比例していて、とても居心地が悪かった。
*
「なあー、蘭」
「うん」
「今日元気ない日じゃん」
「……うーん。よく気づくね、ホント」
「蘭がわかりやすすぎるってのもあるけど」
「そうかぁ」
「そうだぁ」
容赦なく太陽が照り付ける空の下───ではなく、冷房がよく効いたコンビニのイートインスペースで、私と綺はアイスを食べながらそんな会話をしていた。時刻は20時を過ぎたところ。
夏になり、2週間前からコンビニのイートインスペースを利用するようになった。
住宅街のはずれにあるコンビニにイートインスペースが設けられている方がもはやレア。利用者は、比較的夜の始まりの20時でもそうそういない。
真夜中さんの出勤は基本的に21時らしく、それまでシフトが組まれている女性の店員さんは、この2週間ですっかり私と綺の顔を覚えたようで、目が合うと軽く会釈をするようになった。
イートインスペースでアイスを食べ、小1時間ほど喋る男女。おまけに深夜バイター真夜中さんと親しく話していると来たら、何者かと思うのは当然のことで、女性店員さんの記憶に残るのも仕方ない。