どうしてそれを母に聞いたのかわからない。不登校の私を受け止める包容力がある母がどう考えるか、純粋に知りたかったのかもしれない。
肩を叩いていた手が止まった。ぱっと顔を上げると、母のブラウンの双眸と目が合った。
「あるわよ」
母は、しっかりとそう言い切った。まっすぐすぎて言葉に詰まるほど、それは鮮明な音だった。
「2回に限らずね。気持ちがあるうちは何度だって、人は繋がりを求めていくものでしょ。楽しかった思い出、誰だってどう簡単に手放したくないものなのよ」
「…そっかぁ」
「蘭も、そうなのよ、きっと。どうでもいいことほど、忘れるのって簡単なの。苦しいとか辛いとか、例えば負の感情でも、相手に何かしらの気持ちを抱くってことは、忘れられないことの証明だから」
「証明……」
「手紙の……杏未ちゃんも。蘭のこと、わすれられない──…わすれたくないのかもしれないよ」
視線が映り、積み重なった便箋の束に向かう。私のことを忘れられないから、忘れたくないから、この1年、毎月欠かさず手紙を送って来たとしたら。
「若いってのは、それだけで武器だからね、蘭」
母の常套句が、やっぱり好きだ。
杏未へ
返事が遅くなってしまいごめんなさい。それから、文字に頼ったことを、どうか許してください。
手紙をずっと送り続けてくれてありがとう。私はずっと杏未からも現実からも逃げ続けていました。1年前、はじめて杏未から手紙が届いた時、とても怖かったです。これまでずっと言えなかった私の悪いところや嫌いなところを書かれているのではないかと不安でした。見ることができなくて、封を切ったのは今朝のことです。ずっと向き合うことができず、本当にごめんなさい。
手紙の中で、杏未はたくさん謝っていたけど、杏未だけが悪いことではないです。私の弱さとか、よくない部分とか、タイミングとか、そういうのが全部重なってしまったような気もします。でも、自分だけがくるしかったのだと思うのはやめました。ずっとずっと、ひとりで引きこもっていてごめんなさい。
LINEを消してしまってから、杏未と繋がる手段を自分で断ち切っていました。向き合うことから逃げたのに、杏未から手紙がいつか来なくなるかもしれないことも怖いと思っていました。月に一度、封を切らない手紙がリビングの引き出しの中で保管されていくことに、私も同じ時を過ごしている気持ちになれていたのかもしれません。わからないけど。
××××××@××××××.com
080-◯◯◯◯-△△△△
私のメアドと電話番号です。もしいつか、気が向いたら、ここに連絡をください。気が向かなかったらその時はその時です(私もずっと手紙の返事をしていなかったので人のことは言えない)
それから、参考程度にもうひとつ。
夕方か、夜(だいたい23時以降)、うちの近くにある公園に、ほとんど毎日います。私にとって、とても大切な場所だから。気が向いたらでいいです。私はそこで、いつかを待ちわびて待ってます。
名生蘭
p.s.
レターセット、めちゃくちゃ可愛いです。特に7月に送ってくれたクリームソーダ柄のやつと、11月の 絵の具みたいなデザインのやつ。どこで買ったのか、もしよかったら教えてほしいです。
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「らしゃいませー…あれ。菩薩くん」
「その呼び方やめてくださいよ」
「ミヨーさん、今日は来てないすよ」
「ああ、はい。公園にも、今日は来てなかったんで。蘭は、ちゃんと前に進もうとしてるから。忙しくなるんじゃないですかね」
「ふうん。つか今日、どしたんすか。菩薩くん、親に深夜徘徊見つかったんでしょ」
「ああ、まあそうなんすけど、成功したんすよ今日は」
「そりゃめでたいすね」
「無性にコーラ、飲みたくて」
「はあ、なるほど」
「あと、無性に、星が見たかったんで」
「星っすか」
「はい。星、好きです?」
「いやー、まあ、綺麗だと思います。詳しくないけど」
「はは、ですよね」
「あの、菩薩くん」
「はい?」
「なんでそんなに泣きそうな顔してるんすか」
だい‐じょうふ〔‐ヂヤウフ〕【大丈夫】
《「だいじょうぶ」とも》りっぱな男子。ますらお。偉丈夫。「豪放な大丈夫」
だい‐じょうぶ〔‐ヂヤウブ〕【大丈夫】
[名]⇒だいじょうふ(大丈夫)
[形動][文][ナリ]
1 あぶなげがなく安心できるさま。強くてしっかりしているさま。「地震にも大丈夫なようにできている」「食べても大丈夫ですか」「病人はもう大丈夫だ」
2 まちがいがなくて確かなさま。「時間は大丈夫ですか」「大丈夫だ、今度はうまくいくよ」
[補説]近年、形容動詞の「大丈夫」を、必要または不要、可または不可、諾または否の意で相手に問いかける、あるいは答える用法が増えている。「重そうですね、持ちましょうか」「いえ、大丈夫です(不要の意)」、「試着したいのですが大丈夫ですか」「はい、大丈夫です(可能、または承諾の意)」など。
[副]まちがいなく。確かに。「大丈夫約束は忘れないよ」
だい‐じょぶ〔‐ヂヨブ〕【大▽丈夫】
《「だいじょうぶ(大丈夫)」の変化した語》
[形動]⇒だいじょうぶ(大丈夫)
[副]⇒だいじょうぶ(大丈夫)
cf.デジタル大辞泉
⁎⋆*✩
「やえちゃん、鬱になったんだって」
風邪に乗って流れて来た噂──…事実を耳にしたのは、中学1年生の終わり。春休みのことだった。
西本やえ。俺の、4つ上の幼馴染だ。その噂を聞いた当時、彼女は高校2年生だった。
「大丈夫かしらね……。あの子、昔から繊細だったでしょう」
「うん」
「綺、最近会ってないの?やえちゃんの話、何にも知らなかったのかしら」
「うん」
「鬱って、ねぇ。若い子でもなりやすい時代になったのねぇ」
「うん」
「やえちゃんのこと、気にかけてあげなさいね」
「うん」
4年前のあの日のことを、俺はいつになっても鮮明に思いだしてしまう。
心のこもってない返事に、母は気づいていただろうか。西本やえが鬱になったという事実を、俺が内心どんな気持ちで聞いていたかなんて、きっと誰も知らないし、知ろうとすらしないことなのだと思う。
病気とは己の証明である。
やえは心の病気になった。薬がないと眠れないらしい。何をするにも億劫で、自分には何もないと感じるらしい。死にたい、消えてしまいたいと、毎日のように思うそうだ。
俺はそんな、繊細そうな彼女を───羨ましいと思っていた。
*
俺の母はよく喋る、とても世話焼きな人だった。父もまた温厚で優しい人だった。2つ下の妹は、父によく似て優しく大人しかった。
平和な家庭に生まれた。丁寧に育てられた。愛されていた。俺と妹に、平等に愛を注いでもらった。
一方、やえはそうではなかった。
両親を幼い頃に事故で失くしていて、親戚の家を転々としていた。俺が小学3年生の夏頃に向かいのマンションに越してきた。
母は、やえが帰ったあと、「なんだか繊細そうな子ね」と言っていた。それがどういう意味だったのかは、当時の俺には理解できないことだった。
センサイソウ。西本やえは、センサイソウな女の子らしい。だから優しくしてあげなければならない。
4年後にやえが鬱になることを予想していたかのような言葉だったな と、思い出して笑えた。
所詮他人事。俺だって、本当は出会った時からずっと、彼女のことをどうしようも無い羨望の瞳で見つめていたのかもしれない。
小学3年生のときだ。
引っ越しのあいさつ回りでに来た時に顔と名前は知っていたけれど、初めて話したのはそれから1か月後の、夕暮れ時の公園でのことだった。
「なぁなぁ、学校いかないの」
小学校の裏にある、滑り台とブランコしかないこじんまりとした公園で彼女を見かけた。
小学生の下校の時間帯だった。制服を着た中学生がその時間に 公園に居るのは少しばかりおかしなことで、好奇心旺盛だった俺は、深く考えることもせず 彼女に声をかけたのだった。
やえは、転校生だったこともあってか学校に上手く馴染めていないようで、「学校には行かない」と短く答えた。スカートの上で握りしめた拳が震えていることに気づき、彼女がなにかに脅えていることはすぐに分かった。
「そっかぁ。そういう時、おれにもある。行きたくないならしょうがないよ。やえちゃん、センサイソウって、うちのお母さん言ってた」
「……それはきっと、悪口なんだよ」
「悪口って、悪い言葉だろ。俺には、そうは聞こえなかった」
「きみは、……綺くんは、幸せそうでいいな」
やえの目にはいつだって光がなかった。綺くんは幸せそうでいいな。当時の俺は今よりずっと純粋でまっすぐに生きていたから、やえの言ったそれが皮肉だなんて少しも疑わなかった。
「やえちゃんは、幸せじゃないの?」
だからこんなにも簡単に言葉が吐けたのだと思う。やえが幸せじゃないのは、この街に来てから友達ができないせいだと思っていた。
俺の問いかけに、やえは「わからない」と言った。俺は、やえの回答こそが「わからない」と思った。
「……わかんないの。でも、生きるのはずっとつまらない」
「そうなの?」
「だれもわたしのことなんか見てないし興味ないって思うのに、みんなどうせわたしのこと嫌いで、死ねばいいって思ってるんだろうなっても思うの」
「そうかなぁ。死ねとか思わないけどな、フツウ」
「綺くんは、やさしいね」