「具合はどうだ?」
唯泉が翠子を見舞いに来た。
といっても、大事をとって二日ほど横になっていただけで、もうなんともない。
「はい、大丈夫です。口を塞がれていたので煙を吸わずに済んだようです」
「ほぉ、姫は運が強いのぉ」
――そういえば、あれはなんだったのか。
「あの時、不思議なことが起きたのです。壁が自ら音を立てて煌仁さまに知らせてくれました」
ガタガタと、まるで地震でも起きたように壁だけが揺れたのである。
「ほぉ、壁が助けてくれたか」
なんでもないことのように唯泉は微笑んだ。
「日ごろ話を聞いてやっているから、恩返しかもしれぬな」
「そんなものでしょうか」
「ああ、そんなものだ」
「私は、壁と煌仁さまに助けてもらったのですね。あの、煌仁さまは?」
「心配ない。早速忙しくしておるわ」
「そうですか……」
宴から三日が立ったというのに、弘徽殿の女御はまだ認めていないようだ。
その一方で、実際に皇子に薬を盛った女房ふたりは観念し、全てを詳細に話したらしい。
清白という女房の話によれば、皆子供を女御の実家である左大臣に人質にとられて、どうにもならなかったのだという。
彼を襲った男は、砂金をくれた男の顔を見ていない。相手は覆面をしていたというのだ。
でも、砂金が入っていた袋と全く同じ袋が左大臣邸から出てきた。邸からは女房の証言通り毒もあったという。
左大臣や弘徽殿の女御がどう言おうと、もう逃れられないのである。
人を殺めようとし、疑われないように我が子にも毒を盛る。
女御は人の心を捨て、鬼になったのか。
様々な思いを巡らしながら、翠子は膝の上のまゆ玉を撫でた。
「姫、念のため薬は飲み続けた方がよいぞ。少しでも喉が痛いうちは」
「はい。当分は飲もうと思います」
「ああ、それがよい」
「唯泉さま、ご活躍だったそうですね」
「活躍したのは私じゃなくて物の怪だ」と唯泉は笑う。
「女御の悪事が全て露見して安心したのだろう。物の怪は自ら消えたわ」
「結局、物の怪はなんだったのですか?」
「昔からここにいる掌侍が言っていたが、煌仁には兄がいたらしい。だが、生まれて間もなく亡くなってしまったそうだ。物の怪は、その時の乳母かもしぬと」
「乳母さま?」
物の怪は特徴のある柏の柄が入った唐衣を着ていて、亡くなった乳母が好んで着ていた衣とよく似ているという。
「悲しみのあまり憔悴して、結局乳母も亡くなったそうだ。彼女にとって皇子は我が命のように大切なのだろう。弘徽殿の女御が許せなかったのではないか」
唯泉は柱に背中を預け、遠く空を見上げながら「哀れなことだ」と呟いた。
「――成仏できたのでしょうか」
「できたんじゃないか? なにしろ微笑んだからな」
「ええ? 物の怪が微笑んだのですか?」
「そうだ。もう心配せずともよいぞ、と言ったのだ。そうしたら、にっこりとな、微笑んだ」
見たいような見たくないような。
「結局私は一度も物の怪に会えませんでした」
「なんだ、会いたかったのか? なら今度見つけたら連れてきてやろう」
「そ、それは困ります」
くすくすと笑い合ったけれど、こんな日々ももう終わりだ。
事件は解決し、これから唯泉は宮中を去るという。
翠子も帰る時が来た。
なんだかんだと楽しかった。最初のうちは毎日早く帰りたくて悲しかったのが嘘のように。
「私たちも明日帰ります」
「煌仁が寂しがるな」
翠子は長い睫毛を伏せて俯く。
彼は自由の身ではなくなったので、あれきり会えていない。
唯泉が翠子を見舞いに来た。
といっても、大事をとって二日ほど横になっていただけで、もうなんともない。
「はい、大丈夫です。口を塞がれていたので煙を吸わずに済んだようです」
「ほぉ、姫は運が強いのぉ」
――そういえば、あれはなんだったのか。
「あの時、不思議なことが起きたのです。壁が自ら音を立てて煌仁さまに知らせてくれました」
ガタガタと、まるで地震でも起きたように壁だけが揺れたのである。
「ほぉ、壁が助けてくれたか」
なんでもないことのように唯泉は微笑んだ。
「日ごろ話を聞いてやっているから、恩返しかもしれぬな」
「そんなものでしょうか」
「ああ、そんなものだ」
「私は、壁と煌仁さまに助けてもらったのですね。あの、煌仁さまは?」
「心配ない。早速忙しくしておるわ」
「そうですか……」
宴から三日が立ったというのに、弘徽殿の女御はまだ認めていないようだ。
その一方で、実際に皇子に薬を盛った女房ふたりは観念し、全てを詳細に話したらしい。
清白という女房の話によれば、皆子供を女御の実家である左大臣に人質にとられて、どうにもならなかったのだという。
彼を襲った男は、砂金をくれた男の顔を見ていない。相手は覆面をしていたというのだ。
でも、砂金が入っていた袋と全く同じ袋が左大臣邸から出てきた。邸からは女房の証言通り毒もあったという。
左大臣や弘徽殿の女御がどう言おうと、もう逃れられないのである。
人を殺めようとし、疑われないように我が子にも毒を盛る。
女御は人の心を捨て、鬼になったのか。
様々な思いを巡らしながら、翠子は膝の上のまゆ玉を撫でた。
「姫、念のため薬は飲み続けた方がよいぞ。少しでも喉が痛いうちは」
「はい。当分は飲もうと思います」
「ああ、それがよい」
「唯泉さま、ご活躍だったそうですね」
「活躍したのは私じゃなくて物の怪だ」と唯泉は笑う。
「女御の悪事が全て露見して安心したのだろう。物の怪は自ら消えたわ」
「結局、物の怪はなんだったのですか?」
「昔からここにいる掌侍が言っていたが、煌仁には兄がいたらしい。だが、生まれて間もなく亡くなってしまったそうだ。物の怪は、その時の乳母かもしぬと」
「乳母さま?」
物の怪は特徴のある柏の柄が入った唐衣を着ていて、亡くなった乳母が好んで着ていた衣とよく似ているという。
「悲しみのあまり憔悴して、結局乳母も亡くなったそうだ。彼女にとって皇子は我が命のように大切なのだろう。弘徽殿の女御が許せなかったのではないか」
唯泉は柱に背中を預け、遠く空を見上げながら「哀れなことだ」と呟いた。
「――成仏できたのでしょうか」
「できたんじゃないか? なにしろ微笑んだからな」
「ええ? 物の怪が微笑んだのですか?」
「そうだ。もう心配せずともよいぞ、と言ったのだ。そうしたら、にっこりとな、微笑んだ」
見たいような見たくないような。
「結局私は一度も物の怪に会えませんでした」
「なんだ、会いたかったのか? なら今度見つけたら連れてきてやろう」
「そ、それは困ります」
くすくすと笑い合ったけれど、こんな日々ももう終わりだ。
事件は解決し、これから唯泉は宮中を去るという。
翠子も帰る時が来た。
なんだかんだと楽しかった。最初のうちは毎日早く帰りたくて悲しかったのが嘘のように。
「私たちも明日帰ります」
「煌仁が寂しがるな」
翠子は長い睫毛を伏せて俯く。
彼は自由の身ではなくなったので、あれきり会えていない。