「物の怪はどうなったのですか」
「とりあえず弘徽殿からは出ていってもらった」
まるで人でも追い払うような気軽さである。
「もう少し手伝ってもらいたいからな」
「ええ? 物の怪に手伝ってもらうのですか?」
「ああ、かの者も案じているのだよ、宮中を」
「はあ、そんなものですか」
「そんなものだ」
「それより、近々宴があるそうだ、姫も楽しむといい」
「宴?」
「女御ももう大丈夫だ。麗景殿の皇子もすっかりお元気になられたからな。姫は宴に参加したことはあるか?」
「ありませぬ」
「おお、それならば楽しみにしておくといい。妓女が踊ったり、宮中のいい男がとっかえひっかえ舞いを披露したり管弦を楽しんだり、姫は飲み食いしながら眺めればよいのだ」
「そうなのですね。唯泉さまは? 何かなさるのですか?」
「ああ、煌仁と舞うぞ」
「なんと!」と朱依が声を上げて喜ぶ。
「楽しみですね! 姫さま」
唯泉から聞いていた通り、数日後、宴の誘いが翠子の元に届いた。篁が届けたのは知らせだけでなく真新しく美しい十二単を朱依の分とふた揃え。
「姫さま、お美しいですよ!」
「ふふ、ありがとう。朱依もとってもきれいだわ」
篁が眩しそうに目細める。
「お二人とも、眩しいほど美しいですなぁ」
ふふ、とまんざらでもなさそうに朱依が微笑んだ。
宴の場所は、宮中でも後宮のある内裏を出た外側の広場であった。広場を囲むように屋根のある建物が並んでいる。翠子たちの場所は端とはいえ正面なので全てがよく見えた。
女性たちの席には御簾が垂れていて色とりどりの袖が見える。その様子を見ているだけで美しさにうっとりとする。
「長官、ちょっとよろしいですか?」
篁は楽しむ余裕はないらしい。部下に指示を与えたりと忙しく「少し席を外すが、部下を置いていく故あまり動くなよ?」と朱依に念を押して席を立った。
「篁さまも大変ね」
「警備がお仕事ですから仕方ないですよ」
目の前には食べきれないほどの料理にお酒。これは何かしらと目にも楽しい。
やがて始まった妓女の舞。続いて公達の舞がはじまった。管弦と舞の共演である。
「ご覧ください、ほら、煌仁さまと唯泉さまの舞ですよ」
「ええ、ええ」
ふたりは悠々と舞う。
瞬きも忘れ、翠子はじっと見つめた。
なんと力強く軽やかな舞だろう。
「朱依、舞とは素晴らしいものですね。管弦もこれほど心を動かすものだとは知りませんでした」
「ほんとうに、なんて素敵。姫さま、煌仁さまに琵琶を教えていただいたらどうですか?」
「ええ、そうね、そうね」
自分が琵琶を奏で彼が舞い。あるいは逆でもいい。そんな日がきたらどんなに楽しいだろう。
彼らの演目が終わりしばらくすると、「もうし祓姫さま」と声がした。十二単を着た女官である。
「主上がお呼びです」
「は、はい」
「お供の者は、このままお待ちくだされ」
「あ……はい、わかりました」
***
「東宮、よろしいですか?」
「清白か? どうした?」
「祓姫が、なにやら内密でお話があるそうでございまする」
案内されながら話をした。
清白は煌仁が幼いころに女官になり、結婚するまで宮仕えをしていた。一時は東宮付きとして身近にいたので、煌仁には姉のような存在でもあった。
「久しぶりだな。今は弘徽殿にいるのだったか?」
「はい。夫が先の流行病で亡くなりまして、弘徽殿の女御さまに声をかけて頂き」
「そうか、そうだったのか。大変だったな」
「――いえ」
「子は幾つになった。もうそろそろ元服ではないか?」
「はい……」
「どうした。なぜに泣く」
「東宮……。どうぞ私を信じて付いて来てくださいませ」
煌仁は気づいていた。清白はもともと落ち着いた女性である。なのに最初から声が震えていた。
明らかに何かある。
宴の会場からどんどん奥に入っていくが、清白は何も言わない。
しばらくすると、女官の姿があった。
「祓姫は、こちらでお待ちです」
女官は、塗籠の扉を開ける。中は暗いが、少し覗く衣が見えた。
と、その時、清白がその女官を塗籠の中に押し倒した。
「清白、お、お前裏切るのか」と、女官が叫ぶ。
「お逃げくださいっ!東宮! 早く!」
言うやいなや、清白は塗籠の戸を中から閉めた。
「清白っ!」
と、その時、突然煌仁の後ろから誰かが襲ってきた。
気配を感じた煌仁が身を翻したが、袖がざっくりと斬られていた。
「何者だ」
男は束帯を脱ぎ捨て、括り袴という身軽な衣装になる。
刀を手にしていた。
「舞と蹴鞠しかできない貴族さまのくせに、身軽じゃねぇか」
煌仁は顔色も変えず冷静である。
男を見据えたままゆったりと口を開いた。
「左大臣にでも頼まれたか」
「ふん。誰だか知らねぇよ。砂金ひと袋でお前を殺すよう、頼まれただけだからな」
じりじりと男は近づいてくる。
にやりと口元を歪めた煌仁は腰の飾太刀に手をかけた。
「なかなか使う機会がなかったから、ちょうどいい」
煌仁が抜いた刀が、きらりと光る。
「ここに住む男の刀を見せてやろう、存分にな」
それは一瞬だった。
だらりと落ちそうな袖を翻し、煌仁がくるりと回った。
キーンと高い音を立てて男の刀が空を飛び、倒れた男の首筋に、煌仁は刀をひたりとあてる。
目を見開いた男の喉仏が苦しそうに動く。
「どうした。もう終わりか?」
「東宮!」
検非違使たちが走ってくる。
「遅いぞ。塗籠にいる清白を助けだせ」
「はっ」
とそこに今度は「火事だ!」という叫び声が聞こえた。
***
朱依は途方に暮れていた。
女官と消えてからどれほど経ったのか、翠子はなかなか戻らない。宴は終わり、ぱらぱらと皆席を立ち始めたというのに。
まだかまだかと気を揉みながら、周りを見渡していると同じように首を回して誰かを探しているらしい篁を見つけた。
袖を振り篁を呼ぶ。
「朱依、煌仁さまを知らぬか?」
「私も姫さまを探しているのです。主上がお呼びだと女官が呼びに来て」
「煌仁さまもなのだ。祓姫が呼んでいると」
ふたりは強ばらせた顔を見合わせた。
「わしの代わりにいた部下はどうした?」
「酔って倒れた弘徽殿の女房を連れ出すよう頼まれて」
「――まずい」
「た、篁、どうしよう、姫は? 姫は」
「そなたは、ここにいるのだ。あとはわしに任せろ」
「馬鹿言わないで、私も行く!」
争っている暇はない、篁は部下に指示を与え、皆でふたりを探し始めた。
と、その時。まゆ玉が走ってきた。
「みゃーう」
「まゆ玉!」
その頃、翠子は塗籠に閉じこめられていた。
女官の後を付いて簀子を歩いているうちに、どんどん人けのないところまで来た。帝は体調が優れないようだと聞いていたので、早々に奥で休まれているのかと思い、何も疑わなかった。
ところが突然後ろから襲われ、あれよと言う間に押し込められた。口は塞がれ、手も足も縛られたので何もできない。そのうち、焦げるような臭いが鼻を突いてきた。
(火事?)
慌てて手足を揺すりもがくけれども、紐は堅く結ばれ少しもほどけない。
火事だと叫ぶ声の中に「姫っ!」と聞き覚えのある声がした。
「姫っ! どこにいる、姫っ!」
(煌仁さまっ)
それは煌仁の声だった。
隙間から煙が入ってくる。
蘇る子供の頃の記憶。怖くて動けず母が駆けつけて、母の髪が……。恐怖と悲しみで涙が溢れてくる。
けれどもここで死ぬわけにはいかない。そんなことになったら、どれほど皆が悲しむか。
翠子は精一杯力をこめて心で叫んだ。
お願い彼に伝えて!
(煌仁さまっ、ここです)
どんっ、どんっ! ギィ、ギィ!
不思議なことが起きた。
壁が自ら音をてる。まるで唸るように。
がたっと音がして「姫っ!」煌仁が現れ、同時に炎が見えた。
「火事だっ!」
会場は騒然となった。
まゆ玉に付いて行くと、そこは炎が立ち上っている。
「きゃー、姫っ! 姫さまっ!」「朱依っ!」
半狂乱で炎の中を飛び込もうとする朱依を篁が抑えると、煙の中から翠子を抱いた煌仁が出てきた。
「姫さまっ!」「煌仁さまっ!」
騒ぎの中、唯泉は火事から少し離れたとある殿舎にいた。
管弦の舞の出番が終わり、着替えを済ませた時だ。昼だというのに物の怪が唯泉に姿を見せ、ふらりふらりと誘うように奥へと行くのである。
「なんじゃ」
悪しきものではないとわかっている。唯泉はついて行った。
途中から足音を忍ばせた。人の気配がしたのである。
やがてひそひそと話し声が聞こえてきた。弘徽殿の女御の声であった。
「いかがじゃ」
「ふたりとも、それぞれ離れた塗籠に」
「おお、そうか。でかしたぞ。これであの邪魔な祓いも煌仁も、同時に始末できる。あの者さえいなければ麗景殿などどうにでもできる」
「これで皇子さまが東宮になれますね」
「そうじゃ。ようやく。ところでお前、匙の毒はしっかり処分したのかえ?」
「ええ。女御さまの父君に渡しておきましたから」
「それなら安心じゃ。父君なら上手く隠してくれるであろう。まだ必要だからのぉ、次は粥に入れよう。疑われぬようわが皇子にもほんの少し入れねばならぬが」
そこまで聞いた唯泉は、几帳をなぎ倒し女御とふたりの女房に姿を見せた。
「そんなことだと思ったぞ、女御。お主もこれまでだ」
≪ 帝 ≫
「具合はどうだ?」
唯泉が翠子を見舞いに来た。
といっても、大事をとって二日ほど横になっていただけで、もうなんともない。
「はい、大丈夫です。口を塞がれていたので煙を吸わずに済んだようです」
「ほぉ、姫は運が強いのぉ」
――そういえば、あれはなんだったのか。
「あの時、不思議なことが起きたのです。壁が自ら音を立てて煌仁さまに知らせてくれました」
ガタガタと、まるで地震でも起きたように壁だけが揺れたのである。
「ほぉ、壁が助けてくれたか」
なんでもないことのように唯泉は微笑んだ。
「日ごろ話を聞いてやっているから、恩返しかもしれぬな」
「そんなものでしょうか」
「ああ、そんなものだ」
「私は、壁と煌仁さまに助けてもらったのですね。あの、煌仁さまは?」
「心配ない。早速忙しくしておるわ」
「そうですか……」
宴から三日が立ったというのに、弘徽殿の女御はまだ認めていないようだ。
その一方で、実際に皇子に薬を盛った女房ふたりは観念し、全てを詳細に話したらしい。
清白という女房の話によれば、皆子供を女御の実家である左大臣に人質にとられて、どうにもならなかったのだという。
彼を襲った男は、砂金をくれた男の顔を見ていない。相手は覆面をしていたというのだ。
でも、砂金が入っていた袋と全く同じ袋が左大臣邸から出てきた。邸からは女房の証言通り毒もあったという。
左大臣や弘徽殿の女御がどう言おうと、もう逃れられないのである。
人を殺めようとし、疑われないように我が子にも毒を盛る。
女御は人の心を捨て、鬼になったのか。
様々な思いを巡らしながら、翠子は膝の上のまゆ玉を撫でた。
「姫、念のため薬は飲み続けた方がよいぞ。少しでも喉が痛いうちは」
「はい。当分は飲もうと思います」
「ああ、それがよい」
「唯泉さま、ご活躍だったそうですね」
「活躍したのは私じゃなくて物の怪だ」と唯泉は笑う。
「女御の悪事が全て露見して安心したのだろう。物の怪は自ら消えたわ」
「結局、物の怪はなんだったのですか?」
「昔からここにいる掌侍が言っていたが、煌仁には兄がいたらしい。だが、生まれて間もなく亡くなってしまったそうだ。物の怪は、その時の乳母かもしぬと」
「乳母さま?」
物の怪は特徴のある柏の柄が入った唐衣を着ていて、亡くなった乳母が好んで着ていた衣とよく似ているという。
「悲しみのあまり憔悴して、結局乳母も亡くなったそうだ。彼女にとって皇子は我が命のように大切なのだろう。弘徽殿の女御が許せなかったのではないか」
唯泉は柱に背中を預け、遠く空を見上げながら「哀れなことだ」と呟いた。
「――成仏できたのでしょうか」
「できたんじゃないか? なにしろ微笑んだからな」
「ええ? 物の怪が微笑んだのですか?」
「そうだ。もう心配せずともよいぞ、と言ったのだ。そうしたら、にっこりとな、微笑んだ」
見たいような見たくないような。
「結局私は一度も物の怪に会えませんでした」
「なんだ、会いたかったのか? なら今度見つけたら連れてきてやろう」
「そ、それは困ります」
くすくすと笑い合ったけれど、こんな日々ももう終わりだ。
事件は解決し、これから唯泉は宮中を去るという。
翠子も帰る時が来た。
なんだかんだと楽しかった。最初のうちは毎日早く帰りたくて悲しかったのが嘘のように。
「私たちも明日帰ります」
「煌仁が寂しがるな」
翠子は長い睫毛を伏せて俯く。
彼は自由の身ではなくなったので、あれきり会えていない。
篁がやって来て話してくれた。
帝が譲位するという。今回の事件が体調不良に追い討ちをかけたらしい。
「大陸に行ってみたいと仰っていたのですが無理そうですね」
「そうだなぁ。難儀なことだ」
翠子はくすっと笑った。
これ以上はない慶事であるのに、深いため息をつく者は唯泉くらいだろう。
「おめでたいことですのに」
「ふん。なにがおめでたいものか。宮中という檻の囚われ者だ。ま、あいつのことだから手は打つだろうが。そういえば抜け出して東市に行ったそうではないか」
「はい。焼き餅を食べました。色々買って頂いて。そうそう唯泉さま、手袋の魔除けありがとうございます」
翠子は胸元に忍ばせている櫛と輝く石にそっと手を当てた。
楽しかった思い出。心は彼とともに、海を渡り遠く西の国を旅する。
唯泉とはまた会おうと約束して別れた。
「さあ、荷物は木箱に詰めました。明日出かける前にもう一度忘れ物の確認をしましょう」
「そうね」
着の身着のまま連れてこられたのに、帰りは結構な荷物がある。十二単や冊子に遊び道具、ひいては邸で留守番をしている者たちへの手土産まで、全て報奨として頂いた。
「こんなに頂いていいのかしら」
「いいんですよ。姫さまは宮中をきれいにして差し上げたんですもの」
「朱依ったら恐れ多いわ」
そんなことないですと胸を張った朱依だけれど、離れるとなるとやはり寂しさもあるのだろう。
「この局も、庭の景色は良かったからちょっと残念ですねぇ」としみじみと呟いた。
夕暮れ時になって煌仁が現れた。
「帝がくれぐれもよろしくと、ありがとうと、仰っていた」
「いいえ。また――」
一瞬言い淀んだが、翠子はにっこりと目を細めた。
「また何かあればお呼びください」
煌仁はうれしそうに頬を上げる。
「ありがとう。東市にも、また共に行こうな」
まだそれを言ってくれるのかと、胸が熱くなる。
でもそれはもう無理じゃないですかと心で笑い、笑顔のまま翠子は答えた。
「ええ。楽しみにしていますね」
今は考えられなくても、もしかしたらずっと先、そんな日が本当に来るかもしれない。
「すまぬ。明日は見送れぬが、くれぐれも気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
袖を濡らす涙は何の涙なのか。
次の日、篁に付き添われながら、翠子と朱依とまゆ玉は宮中を後にした。
屋敷では使用人たちが明るく迎えてくれた。
ひと月ほど留守にしていたせいで、外で翠子を待つ人々もいなかった。
ほっとしながら久しぶりの我が家に入る。
「ほう、趣がある邸であるなぁ」
篁がしげしげと首を回して見回している。
「ちょっと、失礼じゃないの」
朱依が怒るのを笑いながら翠子は思う。同じ邸であるのに煌仁が迎えに来たあの時とは違って見える。
こんなに明るかったのかと、簀子に立った。
奥に籠もってばかりいないで、これからは時々外にも出よう。東市に行ったあの時のように女房のふりをすればいい。唯泉のいる嵯峨野にも行ってみたい。女官たちが話していた熊野詣にも鞍馬にも行ってみよう。
それからしばらくはのんびりと過ごした。
物から声を聞く仕事は唯泉の提案を受けて方法を変えた。
先に文を預けてもらう。翠子はまず文に軽く触れ、その中で気になったものだけを開けて読む。内容が翠子の手に負えそうな時だけ話を聞くようにしたのである。
『姫と煌仁はよく似ている。忘れるなよ? 自分を大切にできなければ人を幸せにはできぬのだ』
唯泉にそう言われのである。
『元気に過ごし、有事の際にはまた共に宮中に駆けつけ、あの不器用な男を助けてやろうじゃないか』
「姫さま、とてもお上手になりましたね」
「ふふ、そう?」
最近は琴の練習に励んでいる。もしまた宮中に呼ばれたとき、煌仁の琵琶と唯泉の笛に合わせて琴を弾けるようになるのが夢だ。
「そういえば最近は姫さま宛の恋文も舞い込んでおりますね」
どうやら朱依は全ての文に目を通しているらしい。
「ええ? そんな物好きが?」
「またもう。篁だって言っていましたよ。宮中でも姫さまの美しさは評判だったって。当然ですよね」
「朱依だって。篁さまがやきもちを妬くほど文をもらっているじゃない」
朱依は頬を紅くしてそんなことはないと言うけれど、気立てのよい美人なのだから、もてないはずがないのだと思う。
「お正月は篁さまも唯泉さまも呼んで楽しく宴でもやりましょうか」
「いいですね! あ、姫さま。今夜は満月ですよ。お月見しましょうよ」
昨夜、明日は満月だと話をしていた。
「そうね。そうしましょう。宴ね」
「はい。月の宴ですね」
朱依は急いで準備に取り掛かった。
翠子が琴を弾き、朱依が舞ってみせ、やがて爺や牛飼いやみんなで踊り始めた。
団子を食べて酒を飲み、笑って歌って。まゆ玉も皇子にもらった毬で遊ぶ。邸で初めての宴に皆で喜び大いに楽しんだ。
輝く石をそっと手にして、煌仁さま、翠子の邸も明るくなりましたよと、心で告げる。
そんなある日。
「姫さまー」
ぱたぱたと足音を立てながら朱依が簀子を走る。
「どうしたの? そんなに慌てて」
「来たんですよ。煌仁さまが」
「え? うそ」
まゆ玉が膝の上にいるのも忘れ、翠子は立ち上がった。
落ちたまゆ玉が「みゃあ」と抗議の声を上げるが翠子の耳には届かない。
簀子に出た時には、煌仁がもうそこにいた。
「煌仁さま?」
「姫、迎えに来た」
「え?」
後ろにいる篁が困ったように眉を下げる。
「陛下は、姫さまが入内しない限り、帝にはならないと宣言されたのだ」
朱依が「なんと」と声をあげた。
「すまぬ、姫よ。来てもらえぬか?」
「……でも」
入内なんて、無理ではないか。
「姫にいてほしいのだ。姫でなければ后などいらぬ」
――煌仁さま。
「姫よ。わしからも頼む。なあ朱依も頼んでくれ」
「姫さま、行きましょう宮中へ」
朱依が目にいっぱい涙をためて訴えた。
いつの間にか集まっていた爺や使用人のみんなも口々に「姫さま、お行きなされ」「幸せにおなりなされ」と涙を浮かべて訴える。
年が明け、煌仁は帝となった。
即位の儀には中宮となった翠子が並ぶ。
それはそれは美しい両陛下の姿に人々は歓喜に沸いた。
立場上父の官位が必要で、翠子は新左大臣の養女となり入内した。朱依は官位を頂き翠子付きの上臈女房となった。
頼もしくも優しい帝に気遣われながら、凜とする中宮を見て朱依は袖で涙を隠す。
「朱依よ、そろそろ色よい返事をくれぬか」
ひょっこりと顔を出した篁が、すねたように顔をしかめる。
「朱依じゃなくて朱の君と呼んでちょうだい」
「またそんな水臭いことを。なぁ、無事に即位の儀も済んだのだから、そろそろよかろう?」
朱依は返事はしないけれども、篁が持ってきた干し棗はうれしそうに頬張る。そして何を思ったか棗をひとつまみして篁の口元に差し出した。
うれしそうにその棗を口にして、篁は朱依を抱き寄せる。
「ご覧なさいよ、月がきれいだわ」
「ああ、そうだな。でも朱依のほうがきれいだぞ」
宮中の夜は更け、清涼殿から琵琶の音が聞こえてくる。
翠子が教えてほしいとねだり、煌仁が教えている。翠子の後ろから覆いかぶさるようにして、翠子の手を取り琵琶を弾く。
「これではあなたが弾いているのと変わらないわ」
くすくすと笑う翠子に煌仁が頬を寄せる。
「まゆ玉に恋人ができたそうですよ」
「そうか、それはよかった」
「ええ、ほんとうに」
「翠子、そなたも幸せか?」
「もちろんですよ。もちろん、この上もなく」
愛する人の胸のなかで。
誰よりも心から、翠子は幸せだと思った。
― 了 ―