「素敵ですね」
マスターがうっとりと言った。そこで私はここまで赤裸々に自分の事を他人に話したのは初めてだなと内心驚いていた。
「そ、そうですかね。ありがとうございます」
「心底愛されてたんですねぇ」
そう言われて初めて、どうにも照れ臭くて、かいてもいない汗を白いお絞りで拭っていた。
そう、私は彼に愛されていた。私も同じくらい愛していた。
でも、それでも。
どうして、私に打ち明けてくれなかったんだろう。
「生涯の伴侶になると決めて、一緒に住み始めて、とても幸せでした。仕事面でも、精神面でも本当に彼に支えて貰った。でも……」
ぽた、ぽたとアンティークのテーブルに温かい雨が落ちる。
グラスの中の氷がからり、と音を立てた。
「どうして言ってくれなかったんだ! ずっと一緒に居るって約束したのに! どんな困難でも、彼を支えたかったのに! 全部知った時にはもう遅すぎた」
ずっと胸の裡にこびり付いていた慟哭があふれ出して止まらない。
職場から、彼が倒れたという連絡を受けた時、背筋が凍る思いだった。
急いで病院へ駆けつけると、彼はもう動かなくなっていた。
医者に聞けば、彼は数か月前にとある病を告知されたらしい。
数十万人に一人という確率のそれは、彼の命を急速に蝕み、そして私を絶望へと追いやった。
どんなに苦しかっただろう。辛かっただろう。
私にも背負わせて欲しかった。
でも彼はもういない。
滲む視界の中に、鮮やかな花のような物が映った。
怪訝に思って顔を上げる。酷い顔をしているだろうという事は解っていたが、もうどうでもよかった。
「どうぞ。紫陽花の琥珀糖です」
マスターの柔らかな声が耳に心地よい。小さな菓子皿に置かれたそれは、透き通った青から群青、そして紫に変わり、まるで雨に濡れて光る紫陽花の宝石のようだ。
「……綺麗だ。とても。食べてしまうのが勿体ないくらいに」
「お店の奢りです。古い知り合いの菓子屋が作ったので味はお墨付きですよ」
涙を拭い、小さな宝石を口へ運ぶ。しゃり、と小気味よい歯ごたえとつるりとした舌ざわり。心を解きほぐすような甘さが染み渡る。
彼も甘い物が好きだった。
「……すみません。こんな湿っぽい話を」
頭を下げると、マスターがふふ、と笑って頭を振った。
「いいえ。此処は雨に降られた方々がほんの雨宿りにいらっしゃる店ですよ。お気になさらず。あたしの師匠がね、言ってたんですよ。人生は空模様だって」
「空模様?」
「晴れ、曇り、雨に嵐ところころ変わるからで御座いますよ。あんまり頑張ってお天道様の下を歩いてたら疲れちまうでしょう? だからちいとばかり庇(ひさし)が必要なんです」
「……」
「止まない雨は無いと人は言いますがね。人の心ってぇのは、そんな単純じゃございません。悲しむだけ悲しんで、泣いて泣いて。歩けるまで庇の下で休めばいいんです」
マスターの言葉がすう、と心に染み込んでゆく。ほろり、と涙が頬を伝った。
「歩けるようになって、庇を出たら、もしかしたら空には虹がかかってるかも知れませんよ」
ああ、そうだ。そうかもしれない。
彼を亡くしたこの痛みは消える事はないだろうし、夜は彼を偲んで涙を流すだろう。
彼を悼んで悲しみに暮れたら、歩き出せる日が来るのかもしれない。
心の中の驟雨がだんだんと柔らかく優しい雨に変わっていくような気がした。
「雨も、悪くないものですね」
そう言うと、マスターは「そうでございましょう?」と悪戯っぽく笑った。