灰色に淀んだ空から落ちた水滴がアスファルトを斑らに染めてゆく。
私の心の中を鏡写にしたような空模様はまさに陰鬱と言うに相応しい。
今日、10年以上連れ添った伴侶を見送った。
私には勿体無いくらい素晴らしい人で、誰よりも私を理解し、愛してくれた。
彼と出会ってから、私の世界にはたくさんの色彩が溢れて尽きる事はなかった。
本当に、幸せだった。
だけど、もうあの声を聞く事は出来ない。
あの優しい声を。
眼差しを。
嬉しそうに私を呼ぶ姿は、もうない。
尽きたはずの涙が溢れて止まらない。
もう何処へ帰ればいいかもわからない。
冷たい雨が降り頻る。
このまま全て雨に溶けて消えてしまえば、彼に会えるのだろうか。
ああ。
死んでしまいたい。
消えてしまえばいい。
私なんて。
何故私じゃなかったんだろう。
ざあざあと雨足が強まるにつれて、私の心と体も冷え切ってゆく。
機械的に足を動かす。
傘も差さずにずぶ濡れの私を怪訝そうな眼で見つめる傘の中の他人。
もうどうでもいい。帰る所なんて無いのだから。
ふと、顔を上げるといつの間にか周りが灰色のビル群から緑の生垣や、木々の群れに変わっていた。
先程まで自動車の走る音や通りの喧騒が嘘のように、静かで、雨と濡れた葉が微かに揺れる音だけが聞こえる。
周りには誰もいない。
舗装もアスファルトではなく、石畳だ。雨に濡れた石畳が、周りの緑色に染まっていた。
こんな通り、あっただろうか。
透き通った緑色の紅葉の葉を見上げながら歩く。いつの間にか雨は柔らかな霧雨に変わっていて、心地よい。
小さな稲荷神社が見えた。
大人一人分くらいの大きさのそれは可愛らしいものだが、どこか厳かで神聖な雰囲気が漂っていた。
こんな場所では誰も参拝など来ないだろうに。
何を思ったか私は、濡れた狐の石像をハンカチで気休め程度に拭いて、ポケットにあった100円を白い皿の上に置いた。
そうすると、少しだけ気分が晴れた気がした。
唯の自己満足だが、と自嘲してもう一度歩き出そうとした時だった。
通りの突き当りに、小さな店が見えた。さっきは無かったのに。
吸い寄せられるようにそこへ向かう。古民家を利用したようなその店の庇の上には掠れた文字が書かれた看板が掲げられていた。
「まほろば……茶房?」
ぼんやりと看板を見つめていると、目の前で年季の入ったガラスの引き戸ががらりと開いて、びくりと肩を竦めた。
「あら、いらっしゃい。どうぞ。空いてますよ」
濃紺の作務衣姿に白い前掛けで現れたのは、美しいが、どことなく浮世離れした面立ちの男。長い髪を一つに括り、涼やかな眼と柔らかな口調は何というか、歌舞伎の女形のような艶めかしさがあった。
「あ、ああ。お、お邪魔します」
「ふふ、いらっしゃいませ。お好きなお席にどうぞ……あらあらびしょ濡れですよ」
彼は悪戯っぽく笑うと、白いふわふわのタオルを差し出してくれた。
「あ、すいません。ありがとうございます」
慌てて濡れた上着や顔、髪を拭く。その間も彼は薄い笑みを浮かべて私を見つめていた。左の目尻に泣きぼくろがある。それが何とも言えない色香を漂わせていた。
「慌てなくてもいいですよ。時間は沢山ありますからね」
言葉の意味が分からずにタオルを返し、カウンター席に座ると、使い古されたメニュー表を渡された。
受け取りながら店内を見回す。
温かみのある黄色いランプが照らす店内は、古民家をリフォームしたもののようで、調度品もアンティークなものが多い。和箪笥やヨーロッパ製のアンティークの砂糖壺など、和洋折衷のインテリアだが、店主の趣味が良いのか店の雰囲気に良くマッチしていた。
「いいお店ですね」
「ありがとうございます。先代の趣味のようなもので、あたしはそれを受け継いだだけで御座いますよ」
どこか古風と言うか、芝居がかったような口調のマスターはくすりと笑いながら白いおしぼりを差し出した。
メニューを見る。素朴な手書きで書かれたメニューは、どれも懐かしい物ばかりで目移りしてしまいそうになる。
その中のひとつが目に留まり、私は知らずのうちに口にしていた。
「クリームソーダ……」
幼い頃に口にしたきりだ。もうずっと忘れていた。
「お決まりになりました?」
「は、はい。クリームソーダを」
「かしこまりました」
マスターはメニューを受け取るとキッチンの中でグラスを取った。
「……今日、伴侶を見送ってきたんです」
カウンターを見つめながらぽつりと言葉が零れ落ちた。それは止めようとしても溢れて止まらない。
マスターは黙ってそれを聞いていた。
「10年以上一緒に過ごしてきたけど、彼の事、何も知らなかった。あんなに愛してくれたのに。いっそのこと、私が彼の代わりに逝ったら良かったって思うんです」
彼は私を一人の人間として、私を愛してくれた。
肩書や知名度に群がってくる有象無象とは一線を画していた。
物静かで、理知的で、才能があった。
彼は私の最高の相棒であり、ライバルであり、伴侶だった。
でも、病気の事は話してくれなかった。
気づいた時には、手遅れだった。
彼はもう小さな箱の中で静かな眠りについてしまった。
半身が欠けたような苦痛。胸に空いた穴からは慟哭すら響かない。
ひたすらに、虚ろだ。
「お待ちどうさま。クリームソーダです」
こと、と目の前に置かれたそれを見て、眼を瞠った。
「凄い……」
背の高いグラスの中には、透き通るような蒼空と揺らめく入道雲、深緑色の森。初めて彼に出会った時のあの夏の日の景色が、そこにあった。
「バタフライピーを入れたソーダに、生クリームを乗せて、中にはライム味のゼリーを入れてあります。後は……企業ヒミツ」
マスターの説明を聞きながら、グラスの中の景色に魅入られたように覗き込む。
蒼の中を揺らめく生クリームの雲がグラスの中に夏空を閉じ込めているようだ。
十代の私達がそこに居るような気がして、胸が熱くなった。
飲むのがもったいないくらいだが、早くその味を堪能してみたかった。
ストローを咥えてゆっくり口に含む。爽やかな甘味と酸味、生クリームのまろやかさが見事な調和を奏でている。
そうだ、16歳の夏の日だ。入道雲がかかった空の下、青々とした棚田が風に波打つ畦道で、私は話した事も無い彼にいきなりこう言われたんだ。
「お前、才能あるよ。悔しいけど」
奇しくも同じ小さな短編小説の公募に応募していたのだ。そして私が入選し、地元の新聞に名前が載った。
彼はどちらかと言うと体育会系で、野球部に所属していたから、文芸部の私とは接点なんてある筈も無かったので心底驚いた。
それから密かに文筆家志望だった彼との交流が始まったのだ。
好きな作家、作風、文体。小説に関するあらゆる議論やくだらない話を帰り道にした。
とても楽しかった。本当に。
いつしか、それが恋慕に変わっていたのは、自然な事だった。
だけど閉鎖的な小さい田舎町で、それを表に出すのはタブーに等しかった。
最後まで想いすら伝えられず、私達は卒業し、それぞれの道へ進んでいった。
出版社主催の賞に私の書いた長編ミステリーが選ばれ、私は小説家になった。
運命の悪戯とは本当にあるものだと、今でも思う。
私の担当編集者が、彼だったのだ。
高校生のあの未成熟な危うさは既に無く、成熟した大人の男に変わっていた。
「卒業してからずっと探してた。編集者になれば、絶対にいつか会えると思ってたから」
その言葉に、漸く胸の中の長い長い空白が埋められていくような気がして、思わず彼を抱き締めていた。
「素敵ですね」
マスターがうっとりと言った。そこで私はここまで赤裸々に自分の事を他人に話したのは初めてだなと内心驚いていた。
「そ、そうですかね。ありがとうございます」
「心底愛されてたんですねぇ」
そう言われて初めて、どうにも照れ臭くて、かいてもいない汗を白いお絞りで拭っていた。
そう、私は彼に愛されていた。私も同じくらい愛していた。
でも、それでも。
どうして、私に打ち明けてくれなかったんだろう。
「生涯の伴侶になると決めて、一緒に住み始めて、とても幸せでした。仕事面でも、精神面でも本当に彼に支えて貰った。でも……」
ぽた、ぽたとアンティークのテーブルに温かい雨が落ちる。
グラスの中の氷がからり、と音を立てた。
「どうして言ってくれなかったんだ! ずっと一緒に居るって約束したのに! どんな困難でも、彼を支えたかったのに! 全部知った時にはもう遅すぎた」
ずっと胸の裡にこびり付いていた慟哭があふれ出して止まらない。
職場から、彼が倒れたという連絡を受けた時、背筋が凍る思いだった。
急いで病院へ駆けつけると、彼はもう動かなくなっていた。
医者に聞けば、彼は数か月前にとある病を告知されたらしい。
数十万人に一人という確率のそれは、彼の命を急速に蝕み、そして私を絶望へと追いやった。
どんなに苦しかっただろう。辛かっただろう。
私にも背負わせて欲しかった。
でも彼はもういない。
滲む視界の中に、鮮やかな花のような物が映った。
怪訝に思って顔を上げる。酷い顔をしているだろうという事は解っていたが、もうどうでもよかった。
「どうぞ。紫陽花の琥珀糖です」
マスターの柔らかな声が耳に心地よい。小さな菓子皿に置かれたそれは、透き通った青から群青、そして紫に変わり、まるで雨に濡れて光る紫陽花の宝石のようだ。
「……綺麗だ。とても。食べてしまうのが勿体ないくらいに」
「お店の奢りです。古い知り合いの菓子屋が作ったので味はお墨付きですよ」
涙を拭い、小さな宝石を口へ運ぶ。しゃり、と小気味よい歯ごたえとつるりとした舌ざわり。心を解きほぐすような甘さが染み渡る。
彼も甘い物が好きだった。
「……すみません。こんな湿っぽい話を」
頭を下げると、マスターがふふ、と笑って頭を振った。
「いいえ。此処は雨に降られた方々がほんの雨宿りにいらっしゃる店ですよ。お気になさらず。あたしの師匠がね、言ってたんですよ。人生は空模様だって」
「空模様?」
「晴れ、曇り、雨に嵐ところころ変わるからで御座いますよ。あんまり頑張ってお天道様の下を歩いてたら疲れちまうでしょう? だからちいとばかり庇(ひさし)が必要なんです」
「……」
「止まない雨は無いと人は言いますがね。人の心ってぇのは、そんな単純じゃございません。悲しむだけ悲しんで、泣いて泣いて。歩けるまで庇の下で休めばいいんです」
マスターの言葉がすう、と心に染み込んでゆく。ほろり、と涙が頬を伝った。
「歩けるようになって、庇を出たら、もしかしたら空には虹がかかってるかも知れませんよ」
ああ、そうだ。そうかもしれない。
彼を亡くしたこの痛みは消える事はないだろうし、夜は彼を偲んで涙を流すだろう。
彼を悼んで悲しみに暮れたら、歩き出せる日が来るのかもしれない。
心の中の驟雨がだんだんと柔らかく優しい雨に変わっていくような気がした。
「雨も、悪くないものですね」
そう言うと、マスターは「そうでございましょう?」と悪戯っぽく笑った。
外を見れば、既に雨は止んでいて、茜色に変わり始めた日差しがガラス戸から差し込んでいた。
随分と長居してしまったようだ。
「あ、そろそろ帰らないと。マスター、お会計を……」
席を立つと、相変わらず柔らかな笑みを浮かべていたマスターが口を開いた。
「いいえ、もう頂いていますよ。大丈夫。雨は上がってますから」
「え、ああ、あの、また来ます。とてもいい店だった」
「ふふ、また見つけたらお越しくださいな」
謎めいた彼の言葉を怪訝に思いながら、私はがらりと戸を開けた。

「えっ」
途端に、喧騒が私を包み込んでいた。
灰色のビル群が天高く聳え立ち、無関心な他人の群れが、私の横を通り過ぎ去ってゆく。
茫然と突っ立っていると、胸ポケットの中に何か入っているのに気づいた。
それは、丁寧に折られた狐の折り紙。何かが書かれているようで、開いてみれば、達筆な筆文字で
【またのご来店をお待ちしております。 まほろば茶房】
と書かれていた。
まさに、狐につままれたような、それでいて雨上がりの夏空のようになんとも晴れ晴れとした、奇妙な心持ちだった。
私は思わず笑いを漏らすと、喧騒の中を歩き出した。