「ちょっと用事思い出した。また寮で」
 荻野くんの返事を待たずに、降りてきたばかりの階段を駆け上がる。
 四階まで八十段ほど。運動不足の僕には、これだけで一苦労だ。

 肺に鞭を打ちながら階段を三回転し、最上階にたどり着いた。
 影が消えた方向に目をやって、床を蹴る。
 入学早々校則を破り、廊下を走った。

 ——モノクロ。
 ある一色だけで描かれた絵。
 七歳の秋から、僕の世界はモノクロだった。
 そこで使われていた唯一の色彩は、「上手い」。

 あの子は僕より絵が上手。
 僕はあの子より絵が下手。

 たったひとつの味気ない判断軸で、全てを理解していた僕。
 そんな僕の世界に、君が突然入り込んできた。

『私はすっごく好きだよ!』
『きれい!!』
『素敵!』
 加減を知らない君の声色をのせたとき、僕の世界に彩りが蘇った。

 四階の廊下を少し進むと、こじんまりとした中庭にたどり着いた。
 よく磨かれたガラスの向こう側、ベンチに座る後ろ姿が目に止まる。

 掃き出し窓を開けた途端、ソプラノ色の風が僕を包み込んだ。

 息を整えながら、ゆっくりとその背中に歩み寄る。
 両手で楽譜を持ち、清涼なメロディーを口ずさむ君。

 君は、夢中で歌っていた。
 ——だから(・・・)、気づかなかった。
「何してるの?」
 斜め後ろから近づいてくる人の気配に。
 楽譜に黒い影が落ちたことで、君はすぐ後ろに人が立っていることを悟る。
 振り返ると、そこにはよく知った男の子。

 重力が、君の手から楽譜を奪い取った。
 君は立ち上がり、僕に温もりを伝えた。

 君の心臓が、僕を歌っていた。
 ぎゅっと抱きしめて、腕の中で君を描いた。




<完>