入学時から美術部だった笹山さんは、一年生の終わり頃に退部していた。僕が入部する一ヶ月ほど前のことだ。
 美術の人たちに聞いたところ、学外の教室に通って本格的に油絵を学び始めたとのことだった。

 二年生以降は同じクラスになっていないこともあり、目を合わせたのは実に二年ぶり。どう接していいか、相変わらずわからない。

「私さ、篠崎くん見てると、イライラするんだよね」
 唐突にそう言い放った笹山さんの顔には、込み入った感情が浮かんでいた。
「どうしてかわかる?」
 僕の答えを待たずに、笹山さんが続ける。
「私、シュウくん(・・・・・)と一緒に過ごす時間が好きだった」
 シュウくん。
 その呼び名は、目の前の彼女から聞こえると同時に、体の奥深くに沈んだ記憶から響いてきた。
「中学校で久しぶりに同じクラスになれたと知った時ね、ほんとにうれしかった。君とまたたくさん話したいと思った。でも、無理だった」
 彼女が一度言葉を切り、唇をきゅっと結んだ。

 廊下には、別れを惜しむ泣き笑いの声がぎっしり詰まっている。

「久しぶりに会った君は、心を閉ざしていた。私に対しても、君自身に対しても」
 絆創膏を勢いよく剥がされたような痛みが、体の内側で走る。
「バカみたいに擦り切れてて。部活もあんまり行ってないみたいだったし。ほかに何か打ち込んでるようにも見えなかったし」

 仕事は完全分業。やりとりは事務連絡のみ。
 単なる日直のパートナー。

「絵だけは、相変わらず描いてたけどね。でも、絵を描くことが好きだということも、自分で認めていないみたいで」
 彼女の言葉は、二年前の僕の姿を十全に捉えていた。

「私ね、君が何か苦しんでるって気づいてたのに、君に近づく一歩を踏み出せなかった。あのふざけた進路のワークシート見た時、どうしてビリビリに破いてやらなかったんだろうって、ずっと後悔してて」

 一月末の総合の時間。
 ワークシートを拾ってくれた彼女の、不愉快そうなため息。

「シュウくんは、私の人生に始まりをくれた人なのに」
 幼い頃の記憶に名前をつけるように、彼女は言った。
「引っ越しで中途半端な時期に入園して、最初はひとりぼっちですごく不安だった。早くおうちに帰りたいってこと以外、なんにも考えられなかった」
 幾重もの感情を乗せた声が、年月を超えて僕の耳元に届く。

「そんな私が幼稚園を楽しいと思えたのは、シュウくんのおかげ。お絵かきってこんなにわくわくすることなんだって知ったのは、シュウくんが声をかけてきてくれたから」
「僕はただ、一緒に絵を描いてくれる友達が欲しかっただけで——」
「それでも」
 彼女が、僕の言葉を遮る。
「シュウくんのおかげで、私はここまでやってこれたの」
 卒業アルバムを抱える彼女の手に、ぎゅっと力が込められる。
「……なのに私、シュウくんのために何もできなかった」

 複雑な涙が、その頰を一筋伝った。
 雫がリノリウムを濡らす前に、言わなきゃいけないと思った。

「見たよ」
「ん?」
「絵、見たよ。君がまだ美術部にいた時の」

 見開いたその瞳は、僕の言葉を理解していた。