「ただいま」
 玄関でスニーカーを脱いで、下駄箱の扉を開け、自分の段に靴を入れる。
「あら、秀翔、おかえり」
 キッチンで料理中の母さんが僕に声をかけてきた。
 炒め物の香ばしい匂いが洗面所まで漂ってくる。
 ろくに体を動かしていなくても、食欲をそそられた。

 廊下の角を曲がって洗面所へ向かい、手を洗う。きちっと三十秒。
 手を拭いた僕は、朝にカバンに入れてから一度も出していない練習着を洗濯機に入れた。

 リビングに進むと、最初に目に入るのは、壁際に設置された大きな液晶テレビ。
 画面の中では、赤いユニフォームを身に纏った体格の良い野球選手が勇ましくバットを構えている。

 テレビの手前にはミドルブラウンのテーブル。廊下の僕に横顔を向ける形で、父さんが夕食をとっていた。
 珍しく残業がなかったらしい。すでにスーツから部屋着になって、夕食の生姜焼きを口に運んでいる。
 手元のジョッキの中で、黄金色のビールが芸術的に泡立っていた。

「おお、秀翔」
 部屋に荷物を置くべくリビングを横切る僕に、父さんが声をかけてきた。
 僕はもう一度「ただいま」と言う。
「部活の調子はどうだ?」
 父さんの関心がそこにあることは、織り込み済み。
 僕は、頭の中で事前に用意していた答えを返す。
「練習は大変だけど、楽しいよ」

 練習着が汗一滴含んでいないことを、父さんは知らない。
 そう、僕は顧問の先生と両親に、二重の嘘をついてる。

「そろそろ試合には出られそうなのか? 新人戦とかある時期だろう」
 この質問、二学期に入って三回目。
「どうかな。一年生も、みんな上手いからね」
 これは嘘じゃない。
 一年生の中だけで言っても僕がダントツで下手っぴだ。仮に真面目に練習に参加したとしても、万年補欠に違いない。

「そうか」
 父さんはそこで言葉を切った。
 気まずい沈黙が流れる。
 テレビから聞こえる元気の良い野球の実況が、リビングの空気の中で明らかに浮いていた。

「体を鍛えて強くあってこそ男だからな。頑張れよ」
 このアドバイスは、中学に上がってから五十回目くらい。
 僕は適当に返事をして、自分の部屋に向かった。
 テレビから聞こえてくる、図太い応援歌。
 早足で自室に足を踏み入れて、ドアを閉める。
 球場の熱気が遠くなって、平穏が訪れた。