「え?」
 突拍子もない言葉に、思わず腑抜けた裏声が出る。

「私ね、歌の練習したいんだけど、今日はどこも人がいっぱいで」
 軽くあたりを見回してみた。言われてみればたしかに今日は、平日真っ只中の水曜日としては、人が多い。

「だから、私ここで歌う! スケッチしながらでいいから、聴いてて!」
 聴いててって。
 それで、僕に何を求めているんだろう……。
 よくわからなかったけど、僕に話しかけるのをやめて「風景」の一部に戻ってくれるのであれば、僕としても都合がいい。
「あ、はい、大丈夫です」
「タメ口でいいよ! 遥奏って呼んでね!」
 そう言うなり柊さん——じゃない、遥奏は、僕の右斜め前、川のすぐ近くまで歩いた。
 お腹に手を当てて、発声練習のようなことを始める。

 同年代の知らない女の子に突然後ろから話しかけられ、スケッチブックをぶんどられ、顔を鼻先まで近づけられて。
 心臓がばくばくしていた僕は、すぐにスケッチに戻る気分にもなれなくて、右斜め前の横顔をぼーっと眺める。
 遥奏が、目を閉じてゆっくりと息を吸い込んだ。
 さっきまでの能天気な笑顔と打って変わった真剣な表情に、思わず目を離せなくなる。

 遥奏が、目を開けて歌い始めた。
 途端、あたりの空気が変わった。

 繊細、かつ、懐の深い歌声。
 強引に他人のスケッチブックを奪う彼女の姿は、そこにはなかった。
 真っ暗な洞窟で彷徨う人にそっと手を差し伸べ、陽の当たるところに導くような。
 そんな、優しい歌声。

 声の主がいる位置は、教室で言えば三つ前の席くらい離れた場所。
 それなのに僕は、耳元で優しくささやかれたような感覚に包まれる。

 曲が、サビらしき部分に移った。
 遥奏の口元から解き放たれた高音が、天に向かって迷いなく突き進む。
 伸びやかな歌声と共鳴して震える、僕の心臓。
 メロディーを乗せた冬風が、制服の繊維を通り抜けて皮膚を温める。

 しばらくの間、僕は絵を描くどころではなかった。