そう言った遥奏の目は、いつになく真剣で。
 数秒間、僕らは視線を絡み合わせた。
 その間、まるで世界に僕らしかいないような気がした。
 遥奏が川の方を向いて少し歩き、発声練習を始めた。

 日はとっくに沈んでいる。
 近くに照明はなくて、普段より周囲が見えづらい。
 それなのに、斜め前の遥奏の姿は、いつもよりも鮮明に見えた。
 ふわりと揺れる黒髪。
 次々と形を変える、小さな唇。
 セーラー服のこまかいシワ。
 冬服の落ち着いた色合いが、遥奏の白い肌を際立たせていた。

 遥奏が、歌い始める。
 ソプラノが風に運ばれて、僕の皮膚を貫いた。
 一瞬、自分が一度死んで生まれ変わったかのような感覚を覚えて。

 ——衝動(・・)が生まれた。
 走って荷物を取りに行き、スケッチブックを取り出して、右手で鉛筆を握った。
 描きたい。
 描いていたい。
 君を、描かずにはいられない。
 遥奏の歌声が僕の指に絡みつき、鉛筆の先に揺るぎない力が宿った。
 
 夜空を見つめて声を伸ばす遥奏。
 薄桃色の唇が、ときに大きく広がり、ときに鋭く尖り、ときにまっすぐ横に伸びる。
 夜空の闇に、うららかな声色が重ね塗りされた。

 やがて、川のほうを向いて歌っていた遥奏が、僕の隣に来て肩を寄せた。
 耳元で、甘い歌声が響く。
 温かな吐息が、鼓膜から体中に広がる。
 その熱を右手に集めて、夢中で鉛筆を動かした。
 遥奏の瞳、髪、鼻筋、口、手……。
 遥奏が僕に見せてくれる全てを、画用紙に写し取っていく。

 遥奏の歌の中に、僕がいて。
 僕の絵の中に、遥奏がいて。

 僕らは、ひとつに溶け合った。