人に絵を見せた(というか見られた)のは、いつぶりだろうか。
 普段、自分が描いたものを人に褒められるという経験がなくて、反応に困る。

 女の子の視線が、僕からふたたびスケッチブックに戻った。
 僕はそのまま無言で、ぼーっと女の子の様子を観察した。
 ふと、セーラー服の胸ポケットのエンブレムが目に入る。金色の刺繍、盾型の枠の中に、厳粛な自体で『寅中』という文字。
 この子、寅中(とらちゅう)の生徒か。

 寅中こと寅島(とらしま)中学校は、僕が通う酉ヶ丘(とりがおか)中学から東にしばらく歩いたところにある。
 この河川敷まではたぶん徒歩三十分と少しの距離。僕の学校から河川敷までよりもやや遠いはず。
 あえてここまで来るってことは、この子も僕と同じで部活をサボってたりとかかな。
 ……もしかして、ヤンキーだったり?
 もし、「返してほしければタバコを買ってきて!」なんて言われたら、スケッチブックを見捨てて全速力で逃げよう。

 そんなことを考えていたら、一通り目を通したらしい女の子が、僕の顔を見た。
 オレンジの皮みたいに柔らかく曲がった二重まぶた。薄桃色の唇の奥で、今日の雲よりも白い歯がきれいに並んでいる。
「見せてくれてありがと! すごく素敵な絵を描くんだね!」
 そう言いながら、僕にスケッチブックを返してくれた。
 とりあえず、違法行為に巻き込むつもりはないようで、ほっとする。
 そのお礼に、「見せたんじゃなくて、あなたが勝手に見たんでしょう」というツッコミは口に出さないことにした。

「私、柊遥奏(ひいらぎはるか)! その制服、君、酉中(とりちゅう)の人? 名前は?」
「あ、はい、酉中一年生の篠崎秀翔(しのざきしゅうと)です。よ、よろしくお願いします」
 緊張して、無駄に改まった自己紹介をしてしまう。
「秀翔ね! よろしく!」
 出会って数十秒。いきなり下の名前で呼ばれた。距離感の詰め方が、明らかにおかしい。

 でも、僕がほんとに面食らったのはここからだった。
「ねえ」
 柊さんが、かがんで僕の顔を覗き込んだ。
 大きな瞳の中に、僕のうろたえた顔が閉じ込められる。
 長い黒髪が前に揺れ、僕の頰をかすめた。

「今から私ここで歌うから、聴いててね!」