最終的に三対二で僕の負けとなり、ドーナツを奢ることになった。

「あそこあそこ!」
 遥奏が指差した方向に目をやると、十メートルくらい先に赤色の看板。
「あれが今日オープンしたお店だよ! 楽しみ!」
 遥奏の足取りが早くなる。 

 そのとき、館内BGMが止まったかと思うと、短い効果音に続いてアナウンスが流れた。
『……本日は、館内清掃のため、十八時で閉館となります。誠に恐れ入りますが……』
「えーー! そんな!」
 時計を見ると、すでに閉館十分前だった。
「行きたかったのにー!」
 そのとき、スマホのバイブレーションが鳴ったらしく、遥奏は「もしもし」と言って電話に出た。

 「へ」の字に曲がったその唇を見ながら、僕はここに来る前の遥奏の言葉を思い出していた。
『私、オープン当日のドーナツ屋さんに行くの、夢だったんだよね!』

 ほんの小さな夢だ。
 これから先、いくらでも叶える機会がありそうな。
 それでも、遥奏が思い描いた景色がその瞳の中でシュレッダーにかけられるのを、見たくないと思っている僕がいた。

 歌が好き。ドーナツ巡りが趣味。
 『好きなこと:特になし。得意なこと:特になし』の僕と違って、自分の「好き」をはっきり持っている遥奏。

 その願いを叶えるために、できることをしたいと思った。

 斜め上を見ながら通話している遥奏を置いて、僕は赤色の看板に向かって歩き出した。