モノクロの世界に君の声色をのせて

 恐怖のような表情を顔に貼り付けたまま、時間が止まったみたいに動かない。
「遥奏?」
 繰り返し呼びかけても、遥奏は反応しなかった。
 
 僕の目の前には、声をあげて泣く男の子と、フリーズした遥奏。
 周囲の人々は、こちらに目もくれず通り過ぎていく。
 いったいどうすればいいのか、僕にはわからない。
 わかっているのは、この場をなんとかできる人間が僕しかいないということだった。
 脈が、速くなる。
 ごくりと唾を飲み、かがんで男の子に目線を合わせて話しかけた。
「ね、ちょっと、び、びっくりしちゃったよね」
 同年代ともろくに話せない僕。小さい子供との話し方なんて全くわからなかった。

「うわああああああん」
 男の子は、一向に泣き止まない。
 どうしたらいいんだろう。
 焦れば焦るほど、思考がまとまらなくなる。

 ふと男の子の背後に目をやると、水槽が視界に入った。
 小さな青い魚が、どこへ向かうともなくのんびり泳いでいる。
 その悠長な動きを見ていると、不思議と僕まで落ち着いてきた。

 焦るな、考えろ。
 この場で僕ができることは、なんだ。
 泣いている男の子と固まった遥奏の横で、僕は必死に頭を回転させた。

 ……なぜ、こんなことを思いついたのかは自分でもわからない。
 けど、一か八かやってみることにした。
 カバンからスケッチブックと筆記用具を取り出す。
 簡単な魚のイラストを描いて、男の子に見せた。

「み、見て、お魚さん!」
 子供と話すときにふさわしいであろう声の調子を、精一杯作ってみた。
 男の子が画用紙に目を向けてくれたことを確認して、余白にもう一匹形の違う魚を描いてみた。
「どっちが好き?」
 先に描いた方を指差す男の子。
「こっちが好きなんだね!」
 相変わらず涙を流しながら、頷く男の子。

「じゃあ、今度はクイズ。お兄ちゃんが絵を描くから、何描いたか当ててね」
 男の子は、まだすすり泣いていた。
 僕は画用紙に、二足歩行の鳥類を描いた。とがった唇、黒い背中。
「これなーんだ?」
「ペンギン」
「すごいね!」
「それくらいわかるよ」
 初めて、内容のある言葉を返してくれた。

「お、じゃあ、今度は君が絵を描いてみせてくれる? 何描いたのかお兄ちゃんが当てるから」
 幸い、僕のカバンには画材一式が入りっぱなしだった。
 カバンからいくつかの色鉛筆を取り出して、「どれがいい?」と尋ねてみた。
 男の子が、紺色を指差す。
 僕は、スケッチブックと色鉛筆を男の子に手渡した。
 男の子が紺の色鉛筆を使って白紙の上に表したのは、丸みを帯びた細長い動物。
 あんまりリアルに描けてはいないけど、何を表したかったのかギリギリ見当がついた。

「イルカかな?」
 男の子がこくりと頷いた。
「ママと、イルカみるってやくそくしてた」
 そういえば、館内で何度かイルカショーの案内を見かけた。たぶんそれだろう。
「おっけー。じゃあ、イルカショーの時間までにママを見つけないとね。大丈夫。きっと見つかるよ」
 そう言って僕はあたりを見回した。
「えっと、迷子センターは……」
「こっち」
 いつのまにかフリーズが溶けていた遥奏が、階段の方を指差していた。