「うわっ!」
 反射的にスケッチブックを閉じる。
 今描いていたものは、見られただろうか。
「は、遥奏!」
「何描いてたのってば!」
 どうやら見られてないっぽい。
「な、何も」
「見せて」
「やだ」
「なんで!」
「やだって言ったらやだ!」

 両腕でスケッチブックを抱えて、遥奏に奪われないように死守する。
 今回のは、絶対に絶対に見られたくないやつだった。
 遥奏は諦めたようで、かがんでいた姿勢を元に戻す。
 九死に一生を得た。帰ったら今日の絵は処分しよう。

「元気してた?」
 まともに視線を合わせない僕に向かって、遥奏が聞いてきた。

「しばらく来なかったね」
 感情を込めないようにして、あくまで事実を指摘するというふうを取り繕う。

「ちょっと出かけててさ!」
「出かけてたって、三日も連続で?」
 次の瞬間、遥奏の声に悪意が宿った。
「なーに? 私がいなくて寂しかった?」
 疑問文の語尾につられて、僕の心臓がぐいっと上に引っ張られる。
 今しがた自分の口から出た言葉を取り消したくなった。
「別に」
 できる限り顔を背けながら、それだけ答える。
「ふーん」
 相槌から、悪意が僕を覗き続けていた。

「今日もまたここで歌うの?」
 これ以上この話題を続けたら身が持たないと考えて、話をそらす。
「うーん、そうだねー、どうしよっかなー」
 僕は顔を背けたまま、遥奏の仕草を視界の端で捉える。
 人差し指を下唇に当て、斜め上を見て、何かを考えている様子。
 僕にはわかる。
 遥奏がこの仕草を見せたときは、大抵ろくなことにならない。

 やがて視線を僕に戻した遥奏は、謎の質問をしてきた。
「秀翔は、門限ってある?」
 質問の意図がつかめないまま、僕はとりあえず答える。
「あんまり遅くならなければって感じ」
 卓球部の練習に行っていた頃、ごくたまに、部活の人たちとぶらぶらしてから帰ることがあった。そんなときは、家族のLINEグループに一報さえ入れれば問題なかった。

「いつも河川敷で話してるのさ、飽きてきたよね!」
 イエス以外の返事が用意されていない物言い。
「だからさ、ちょっとどっか出掛けようよ!」
 話の流れは想定外。
 六日ぶりに会っても、遥奏は相変わらずだった。

「どっかって、どこ?」
「いいからさ!」
「いいよ僕はここで。ぼーっと絵を描いていたいから」
 そう言った時だった。
 スケッチブックの表紙に、透明な液体が落ちてきた。
 僕は空を見上げる。
 雨雲だったものが水となって、ぽつんぽつんと降ってきていた。
「げー! 雨じゃん!」
 遥奏も気づいたようで、恨めしそうに空を見上げている。

 僕は荷物をまとめながら遥奏に告げた。
「雨降ってきたしさ、今日はもう僕適当に屋根のあるところで……」
「よし、じゃあ水族館に行こう!」
「何が、『じゃあ』なんだよ!」
 唐突な提案に反応して、思わずスクールバッグから遥奏に目を移す。
 
 六日ぶりに、そのまんまるな瞳と視線がつながった。
 胸元で両手をグーにして僕を見つめる遥奏。
 細かい雨粒が手の甲を少しずつ濡らしても、僕に笑いかけるその顔は、突き抜けるような晴れ模様。
 
 荷物をまとめながら、僕は想像する。
 もし、さっきの絵がバレてたら。
 その瞳や唇や両手はどんなふうに動いて、その喉からはどんな声色が飛び出したんだろう。
 ちょっとだけ、見てみたかったかも。