……え。 
 な、泣いている?
 そんなにショックを与えちゃったのか!?
 どうしよう。
 理由はよくわからないけど、僕は人を泣かせてしまったらしい。

「ご、ごめん、あの」
 慌てて撤回しようとする僕。
 ところが——
「……うれしい!!」
 涙を拭きながら遥奏は、これでもかというほどの笑顔を見せていた。
「ありがとう!!」
 紺色の袖口から伸びた白い手が、僕の右肩をぎゅっと握った。
 一瞬、触れられた場所が火傷したような感覚に襲われる。
 少し遅れて、熱いのは皮膚の外側ではなく内側だと気づいた。

 今まで味わったことがない感覚に、頭の中がごちゃごちゃになる。
 ……いったいなんなんだ、この子は。
 さ、最近性教育の授業で、同意を取らずに他人にボディタッチするのはよくないって習ったばかりなんだけど! そっちの学校では教えてないの? 

「じゃあ、私ここで歌ってていいんだね!」
 僕の肩から手を離した遥奏は、上ずった声でそう訪ねてきた。
「え、うん」

 とりあえず、怒らせたわけではなかったことにほっとした。
 だけど、遥奏の喜び方が普通ではない(・・・・・・)気がして、僕は違和感を拭えなかった。
 出会って二日目の他人、しかも歌の専門家でもない僕にひとこと褒められただけで、どうして涙を流してまで喜ぶんだろう。
 聞いてみたかったけど、どう聞いたらいいか迷っているうちに、遥奏はまた水面の近くに戻り、次の歌を歌い始めた。
 それを邪魔してもいけないと思って、僕も自分の絵に戻った。

 泣き止んだ後であるせいか、遥奏の歌声はさっきよりもちょっと不安定な気がしたけど、やっぱりきれいで心地よい声だった。
 どこかで聴いたことがあるようなないようなメロディを聞き流しながら、僕は風景画を描き続ける。

 ——このときの遥奏の涙の意味を僕が知るのは、数ヶ月後のことだった。