部屋の電気をつけて、紺色のオフィスチェアにドカリと座った。
 メッシュの座面と背もたれが、柔らかく僕を受け入れる。

 暇だし来週提出の数学のワークでもやろうかと思って、スクールバッグを開けてみた。
 けれど、必要な時間を見積もって、土日にやれば間に合う量だしと思うと、急速にやる気がしぼむ。
 代わりに、ワークの隣にあったスケッチブックを取り出し、何をするでもなく、今日使ったページを開いてみた。

 水面、草木、空、建物、通行人。
 僕の視界に入ったたくさんの物や人。
 河川敷に行けば、現実から目をそらせる。
 「期待外れの息子」であることを忘れて、ただただ風景を写し取る「視線」になれるんだ。

 そう、風景。
 スケッチの時に、向こう岸に見える人々を描くこともあったけど、その人たちは僕にとってみんな「風景」だった。
 ビルが立っていて、空が広がっていて、それらと同じように、ランニングするおばさんやおじさんがいて。

 でも、今日は違った。
『私はすっごく好きだよ! この絵!』
『私、ここで歌うから、聴いててね!』
 僕に、関わってくる人がいた。

 画用紙に描いた川岸に目を落としてみる。
 僕が下書きを終えた後で、あの子は現れた。
 肩幅に足を開き、空に向かって声を羽ばたかせる女の子の横顔が、画用紙の上にぼんやり浮かび上がる。

 ひとりで絵を描いている時間。
 世界と微妙な距離を保っている時間。
 その平穏を邪魔されたのは、煩わしくて。
 ……だけど。
 あの歌声は、そんな煩わしさを帳消しにするほど、いやそれ以上に、きれいだった。