華乃子は肩を落として会議室を出た。……まさか、自分の力で勝ち取ってきたと思っていた昨今の婦人部での成果に実家の力が影響していたとは、微塵も思わなかった。
鷹村では存在を忌み嫌われ、それ故家を出たというのに、出た先で鷹村の影響があるとなると、華乃子はいったいどこへ行けば良いのか。自分の存在価値を見出せなくなって廊下をふらふら歩いていると、背後から声を掛けられた。
「鷹村さん」
振り向くと其処に居たのは同じ婦人部の佐藤さんだった。彼女はどちらかというと大人しい性格で、何時も俯いているような感じの人だった。だから今、声を掛けられたことが不思議でびっくりしている。
「何でしょうか、佐藤さん」
彼女もまた、鷹村の威光の許で仕事をして来た華乃子を罵るのだろうか。そう思っていたら、思いもよらぬ言葉を小声で掛けられた。
「あまり落ち込まないでね。貴女が立ててきた企画を、私は素晴らしいと思っています」
華乃子はぱちりと瞬きをして佐藤を見た。あまり積極的に言葉を発することが苦手であろう彼女はぼそぼそと言葉を続ける。
「一生懸命街を歩いてレポートを書きあげて、遅くまで仕事をしているのを知っています。貴女は実力で紙面を勝ち取ってきたんだわ」
呆けるように佐藤を見た。佐藤は華乃子と一緒に居るところを通りすがりの社員たちにじろじろ見られれていることを気にして、それだけ伝えたかったの、と、やはりぼそぼそとした声で伝えてくると、足早に華乃子の傍から去った。
……華乃子の実力を認めてくれている人が居た……。
それは華乃子の心を満たし、じわじわと華乃子を嬉しくさせた。
(……悪いことばかりじゃないわ……。ちゃんと頑張れば、認めてくれる人だっている……)
喜びに打ち震えていると、ぽん、と背後から肩を叩かれた。
「どうしたんだい、華乃子ちゃん。廊下で突っ立っていたら人の邪魔になるよ」
話し掛けてくれたのは寛人だった。寛人が声を掛けてくれたことで、周りの目が華乃子たちに寄せられる。あまり好意的な視線でないことは分かった。浅井もこういう目で華乃子を見ていたのだと思うとこれからの仕事が辛いが、それでも仕事の内容はやりがいがある。前に進まなくては、と華乃子は思った。
「いえ、なんでもありません」
「そうかい? 何かあったら相談に乗るけど」
副社長の寛人に浅井のことを悪く言いたくない。華乃子は首を振って応えた。
「私が至らない点があったことが分かっただけです。お気遣いは嬉しいですが、私が努力しなければならないことですので、ご遠慮いたします」
頭を下げてその場を辞する。寛人が考え込んだ顔で華乃子の背中を見送っているのをひそひそと、「鷹村さん、今度は副社長に色仕掛けかしら」なんて言葉が聞こえてきて、更に逃げ出したくなった。実際に少し小走りになっていたかもしれない。それを止めたのは、華乃子の後から会議室を出てきた藤本だった。
「噂には聞いていたけど、貴女本当に副社長と仲が良いのね」
振り向くと目じりを吊り上げた藤本が書類を持ってこちらに歩いて来ていた。華乃子は、ええまあ、としか答えることが出来ず、藤本は華乃子に並ぶとこう言った。
「その関係は、単なる友情?」
……藤本は何を聞きたいのだろう。それが分からなくて、華乃子は返答に困った。藤本が話し掛けてくる直前まで、華乃子は藤本に負けた、という感情でいっぱいだった。企画そのものも、華乃子が負っていた鷹村の威光のことも。その彼女から訳の分からない質問をされて、咄嗟に答えを考えられなかったのだ。それを藤本は『ノー』だと理解する。
「私は、貴女に負けないわ。仕事も、恋も」
恋? 何の事だろう。さっきの質問より、更に訳が分からない。今度こそ本当に答えに窮した。
「貴女が副社長から受けてる援助だって、社長と副社長が古くからの付き合いの、貴女のおうちの窮状を見て見ぬ振りできなかっただけの、単なる親切だわ。貴女はそこを理解すべきだわ」
真実ではなかったけど、表向きにはそれでも良いと思った。鷹村家の懐が苦しいから、長女の華乃子が働きに出ている。それでいい。華乃子があやかしを視れる目を持っているから家でないがしろにされたところへ寛人が親切にしてくれた、なんて本当のことは知られなくていい。
「そうですね、その通りだと思います」
しかし、やっと導き出した華乃子の返事は、藤本を怒らせた。
「そうやって清楚ぶるの!? 会社の誰もが知っていることよ? そうやって副社長の同情を買って、九頭宮さんの家の甘い汁を吸っていることなんて。どうせ自分の家の爵位でもちらつかせたんでしょう。隠したって無駄。皆知ってることなんだから」
ハッとした。華乃子の負っている鷹村という名前は、市井に紛れるにしては大きすぎるのだ。
「ち、ちが……」
「良いわよ、色仕掛けでもなんでもしたら? 私は負けないんだから。なんの力にも頼らずに貴女より実績を出して、副社長の覚えも良くなって、何時か社長夫人に上り詰める。その時、貴女はこの会社に居ないわね。惨めに街を走って去るが良いわ」
キッと華乃子を睨みつけた藤本は野望に満ちた目をしていた。華乃子にとってどれだけ企画が通るかは、どれだけの人にモダンガールの良さを届けられたかであり、人と競うためのものではなかった。勿論寛人とどうこうなろうなどと考えたこともなく、彼は古くから華乃子の事情を知っていてやさしくしてくれる、頼れる兄のようなものだ。会社に居続けるか退社するかは、誰かに決められることではなく自分で決めるものだと信じている。藤本の言うことを華乃子は理解できず、でも、彼女にとって自分が邪魔なのだろう、ということはなんとなく察した。
「あ、あの、藤本さん……」
「貴女と慣れ合うつもりはないの。ごめんなさい」
ふん、と藤本が顔を背ける。彼女はそのまま廊下を歩いて行ってしまった。今のやり取りを通りすがりに聞いていた社員たちからの線が痛い。ひそひそとささやかれる声は、華乃子を罵る言葉ばかりだった。
「華族様のお遊びで仕事が出来るんだったら、世の中そんなに楽なことはないわよね」
「なよなよ泣いて副社長の同情を買ったんでしょう? みっともないったら」
妬み、やっかみ。
華乃子の持つ家の力や、寛人が持つ会社の力。その力を求めていることを自分で知りたくなくて悪口を言う人々。藤本のようにはっきりと認めて、すがすがしいまでに求める人。華乃子は何方にもなりたくないと思った。
ただ、『華乃子』という一人の『私』を受け入れてもらいたい。それだけだった。
そこに力は要らない。
それだけだった……。
そんな風に思っていた時だった。朝出勤して席に着いた華乃子を、浅井が呼んだ。
「あー、鷹村くん。君には移動をしてもらう」
実家の力が浅井の忖度を呼んだのだとしたら、確かに華乃子は婦人部にとって要らない存在だろう。それにしたって、ついこの前までは成績を出して、売り上げにだって貢献していた筈なのに。
「編集長! 私にもう一度チャンスを与えてくださいませんか!? 今度こそ素晴らしい企画を立ててみせます! どうか移動なんて言わないでください!」
このまま負け犬になるのは嫌だった。自分と同じように社会に出て頑張っている女性たちを励ます記事を書きたい、というこの会社における希望は捨てていなかった。なんとしてでも実力で婦人部の企画を勝ち取りたい。今のファッションを提案する仕事は職業婦人たちを励ましているという自負もあって、やりがいを感じることが出来ており、漸く会社で自分の居場所を見つけたと思えていたのだ。それなのに浅井は困り顔でこう言った。
「いや、鷹村くん。僕としても婦人部の人員が減るのは辛いんだが、何せうちの出版社は婦人誌だけでは食っていけないんだ。だから今回、文芸部に移動してもらうことになった。何分、先方の作家先生の直々の引き抜きでね」
「そんなっ!」
悲壮な顔をしても、もう先だっての一件によって社内人事は決まってしまっていた。華乃子は肩を落として荷物を鞄に詰め直すと、婦人部を出た。
「短い間でしたが、お世話になりました」
そう言って浅井以下婦人部の人間に頭を下げた。藤本などは、さも当たり前、と言った顔をしていて、その彼女を実力で見返すことなく婦人部を去らなければならないのが悔しい。折角自分の人生を生き始めたと思っていたのに、その矢先にこんな風に道を絶たれてしまうなんて最悪だ、と自暴自棄な気持ちになった。
扉を開けて婦人部を出ると、廊下には寛人が立っていた。
「副社長……」
驚いて華乃子が立ち止まると、聞いたよ、と寛人は片眉を上げて言った。
「どうやら汚名を着せられたまま移動になったそうじゃないか。何故言い返さなかったんだい?」
それについては弁解したかったが、当の浅井があの態度では、華乃子にその意思がなくても鷹村が企画に圧力をかけたようなものだった。
「……悔しいですけど、今は汚名を雪(そそ)ぐ実力がありません……。移動先の文芸部で力を付けて、何時か浅井編集長が呼び戻したくなる人間になってみせます」
決意を込めてそう言うと、そういう強い君は好きだよ、と言って寛人がひとつ、約束をしてくれた。
「君が働く分に、協力は惜しまないよ。そして君の働きが十分だと分かった時に、僕が婦人部へ君を戻してあげよう。それは約束させてもらう」
願ってもない言葉だった。
「是非お願いします!」
華乃子が息巻くと、寛人は頼もしいなあ、と笑った。
華乃子は文芸部の部屋の扉を潜ると頭を下げて挨拶をした。
「鷹村華乃子です。よろしくお願いします」
頭を下げたままでいると、文芸部の編集長は満面の笑みで迎えてくれた。
「いやあ、我が社の気鋭のファッション通である鷹村さんを我が部に迎えることが出来て嬉しいよ。うちの部で是非作品を華やかにして欲しい。ささ、こっちへ来て。先生を紹介しよう」
そう言って応接室に促される。部屋の一角に衝立で囲われた其処には、やさしそうだが白い顔をした風貌の男性が座って居た。
人の良さそうな月のカーブを描くやさしい双眸。眉はやや困ったようにㇵの字を描いている。鼻筋はすっと通っており、唇は薄くおだやかな笑みを浮かべていた。前髪が中央で左右にふんわりと分かれていて、やわらかい髪の毛は彼がお辞儀をするとさらりと顔の輪郭に沿って流れた。
「こんにちは。雪月(ゆづき)と申します。お世話になります」
自己紹介をしてお辞儀をする声が若干弱々しい。白い顔も相まって病弱な感じを受け、自分はこの人の体調管理も任されるのだな、と感じた。
「初めまして、鷹村華乃子です。文芸部とは畑違いの婦人部に居たので、先生のお力になれるかどうか分かりませんが、頑張りますのでよろしくお願いします」
作家の先生と担当者とだったら、先生の方が上だ。それなのに華乃子が頭を下げると、そんな、僕の方こそお世話になります、とまた頭を下げられてしまう。
「僕には芥川先生や漱石先生、子規先生方のような文才はありません。どうか気楽に接してください」
そういってぺこぺこと頭を下げる。華乃子は『作家先生』の想像図を覆されて、ぽかんとした。
ひょろりと細い腕が着物の袖から見える。原稿料が足りなくて栄養が摂れず健康状態のよくない作家はいくらでも居ると知っているから、取り敢えずは安くて栄養豊富な食事からだな、と華乃子は思った。
まずは、僕の本を読んでみますか。
そう誘われて雪月先生のお宅へ伺った。古くて小さな長屋の家で、風通しが良いと言えば聞こえはいいが、冬は寒かろう。
「て、照れますね、女性を家にお招きするのは……」
そういって雪月先生は、ははは、と本当に恥ずかしそうに笑っている。部屋に上がると、書きかけの原稿用紙や資料と思われる書物が散らばっていた。
「先生、顔色があまり良くなくお見受けしますが、お食事、どうされていますか?」
華乃子が問うと、雪月先生は、食事、ですか……、と返事を躊躇った。
「まさか、召し上がってらっしゃらないわけ、ないですよね?」
「ああ、そういうことは、ないのですが、……何と申しましょうか、あまりお腹が減らないので……」
食欲がないからと言って、食事を抜いては駄目だ。雪月先生の不健康そうな顔や身体は、やはり食生活が不十分だったからだった。
「先生。ご執筆に精力的なのは良いことですが、体あってのご執筆です。夕食だけでも、きちんとしたものを食べてください」
華乃子の言葉に雪月先生は、困ったように、そうですねえ……、と煮え切らない様子だ。もしかしてお金のことを心配しているのだろうか。
「あの、もしご迷惑でなければ、私がお作りしましょうか?」
「えっ、そんな……、そこまでしていただくわけには……」
それでも、家事に慣れない男の人が下女もなく、毎日食事を作るのは大変だ。華乃子は子爵の長女でありながら、父や継母からの蔑視の結果、居を別宅に移されてはなゑと一緒に家事をしていたので、はなゑに教えを乞うたこともあり家事全般一通りできる。
「私もまだ先生の担当になったばかりで、何がお役に立てるか分かってませんので、出来ることからやらせて頂きます」
畳に手をついて頭を下げながら、華乃子は、そう、雪月先生に宣言した。雪月先生は困ったように笑っていた。
その後、雪月のお宅で先生の作品を三冊ほど借りての帰り道。華乃子に話し掛けるものが居た。
『それで華乃子は嫁入り前だというのに男の家に上がり込むのか』
「煩いわね。仕事なんだから仕方ないでしょ。それに見たところ雪月先生はそんな悪い人ではないわ」
『いやいや、人間の男は信用ならない。俺の白い体に泥を塗ったのも、人間の男だった』
そういって男を一からげにして嫌うのは、華乃子の目の前を行ったり来たりする、一反木綿。足元には猫又が寄りついてきて、あいつは止めとけよ、とこちらも忠告を口にする。
『あいつと関わったって良いことないぞ。俺の方が、よっぽど華乃子のことを幸せにしてやる』
「おあいにく様だけど、私、あやかしとどうにかなろうなんて、思ってないから」
……そう、こいつらあやかしたちが新しい仕事に対して口うるさい。小学校時代の文との一件を思い出す。昔から普通の人間が見ることのできない、あやかしの類を視ることが出来た所為で、彼らと喋っているところを文たち級友や保護者たちに目撃され、あちこちで変な子供扱いされて友達がいなくなったのは今でも悲しく辛い思い出だ。
だから今の会話もぼそぼそとまるで独り言のように話す。時々咳ばらいを交えながら、話を繰り広げる。
「しかし、女性の社会進出をファッションで後押ししたいという私の夢は断たれたわ……。おまけに状況に負けたとはいえ、まかないの仕事までついてきちゃった……」
はあ、と今回の異動に肩を落とす以外に出来ない。華乃子は、鷹村でもこのあやかしを巡って奇人扱いされて別宅に移されただけあって、自立心が強い。同じように社会で頑張っている女性の為になることをしたかったのに、未来は上手く動かないものだ。
はあ、と肩で大きくため息を吐く。兎に角今日は借りてきた雪月の本を読もう。まずはそれからだ、と思った。
その夜、華乃子は自室で借りてきた本を読んでぼろぼろ泣いていた。雪月のお話は全て人間とあやかしの悲恋の物語だった。あやかしと言う現世(このよ)であやふやな生き物に惹かれたがために人生の破綻に追い込まれていく人間たちと、人間と言う存在に好意を抱き続けるあやかしたちが人間に翻弄されてながらも、その身が消えるのを覚悟で愛を紡ぐその物語……。その悲しいまでに魂と魂が惹きあう様に涙が零れて仕方がなかった。
――「弧十朗さん! 貴方が私にしか見えなくても良いの……! このまま一緒に炎に焼かれて、永遠に私にだけ見えていて……!」
――「美里さん……。そんなことをしたら、君の人生が狂ってしまう……! 僕は魂となって時を渡ります。何時か……、何時か今度巡り合ったら、その時こそ結ばれましょう!」
――そうして弧十朗は己の妖力を現す残った二本の尻尾のうち、やけただれた一本の尾を千切り、変化(へんげ)を解いた。そして最後の妖力で美里をめらめらと燃え盛る炎の中から守り、助け出すと、周囲の人々が自分たちを化かしたとして、ただの狐と化した生き物(こじゅろう)に刃(やいば)を向けて彼を殺しまうのを止めることも出来ず、美里は業火の傍で泣き崩れるのだった――。
「なんて切ないお話なの……。出会っていなければこんな運命を辿ることもなかったでしょうに……。それでも出会って愛し合わずにはいられなかったんだわ……」
雪月はどうしてこんな風にあやかしのことを想像したんだろう。華乃子は今まであやかしなんて、居るだけで邪魔な存在だと思っていたのに。だって今も、本を読んで泣いている華乃子の足元に座って『華乃子を泣かすとは許すまじ、人間め!』とか言ってる猫又の太助(たすけ)や、零れる涙を体で拭おうとする一反木綿の白飛(しらとび)が読書の邪魔をしている。
「ああっ、もう気が散る! 何処かへ行って頂戴!」
そう怒鳴り散らしても二人はどこ吹く風だ。
『だって俺らの居場所は華乃子の傍だからな』
『そうそう。恩を感じたらその身を投じてでも恩を返す、が、あやかしの流儀よ』
そう言うが、華乃子は二人に対して何か大したことをしたわけではない。太助は鼠に尻尾を齧られて逃げているのを助けただけだし、白飛は屋敷の松の木に絡まって動けなくなっていたところを解いてやっただけだ。
『いや~、流石に尻尾が一本になったら化けるに化けられないからな』
『俺だって、松のとげとげの葉っぱに体が食い込んで痛かったんだよ』
そんなところを助けてくれた華乃子は、命の恩人だ、と言うのだ。子供の頃の、何も知らなかった自分に、それを助けたら後々苦労することになるから止めておきなさい、と言うことが出来たら、どんなにか良いだろう。それくらい、華乃子の日常はあやかしに邪魔されている。授業や仕事の最中だけでも大人しくしてくれるようになって、これでも生活環境は良くなった方だった。
「しかし、雪月先生はあやかしに夢を見すぎだわ……。あやかしって、こんなに聞き分けの良いものじゃないもの……。自分本位で人の言葉なんか聞きやしないんだから……」
夢が見れるって、いいなあ。雪月のお話のようなあやかしに夢を見られるのなら、自分にどんな恋物語が待っているのだろうとわくわくできる。でも、現実はそんな甘いものではない。あやかしと言葉を交わしただけで変人扱いされて、血のつながった父にさえ見放された。子爵家の長女でありながら、家の庇護を受けられずに孤独な暮らしをしなければならなかったのも、あやかしの所為。華乃子には、実際のあやかしが美しい生き物だとは、どうしても思えなかった。
雪月も、所詮あやかしを見たことのない人なんだろう。夢想で描くあやかしほど、本当のあやかしは良いものではないですよ、と華乃子は心の中で独りごちた。
翌日夕方から、華乃子は会社の帰りに雪月の許へ行って食事を作って帰る生活になった。はなゑに習ったとはいえ、華乃子は火を扱うのが苦手だ。毎回かまどで火あぶりにされているのだろうかと思う程に汗をかきながら、時には目まいがしそうになるのを感じつつ、雪月の為の食事を作る生活をしていた。そうして何日か通っているうちに、ある日近所のお婆さんに呼び止められた。
「あんた、あの子の知り合いかい?」
今、華乃子が出てきた長屋を指差してあの子、と言うのだから雪月の事だろう。そうです、と応えると、そりゃよかった、とお婆さんは皺くちゃの顔でにっこり笑った。
「あの子、男のくせに下女もつけずに独り暮らしなんかしてるもんだから、あたしゃ心配で二度、三度、差し入れを持って行ったことがあるんだよ。世話してくれる恋人が出来たんなら、良かったことだ。まあ、仲良くやりな」
恋人ではないけれど、食事を作りに行っていることは確かなので、しっかり栄養を摂らせなければと思う。ご近所さんにも栄養状態を心配されていたなんて、どんな青い顔で歩いていたんだろう。取り敢えずこれからは出来るだけ様子を見に来ることにしよう。華乃子が来れない時は、編集部の誰かに頼んでおけばいい。そう思って華乃子は帰宅した。
「先生、たまには人間の恋愛ものを書いてみましょうよ」
華乃子が雪月の家に通い始めて一ヶ月。既に雪月の家のことも大体把握して、台所なんて自分の住む別宅同然に使えるようになった頃、華乃子は原稿をしたためている雪月に向かって資料を差し出しながらそう言った。
華乃子がそう言ったのには理由があった。雪月は相も変わらずあやかしと人間の悲恋物語を書いている。一定の読者は居るようだったが、芳しいヒット作と言うものは出ていない。今書いている話はどうやら蛟と人間の娘の悲恋物らしく、此処は今流行りのモダンガールとモダンボーイの恋愛ものが良いと思ったのだ。
モダンガールの話は婦人誌にも取り上げられているから読者の幅が広がるし、モダンガールものだったら華乃子の今までの知識が生かせる。雪月の為に尽くしたいという気持ちがそう言わせていた。
しかし雪月は頼りなく笑うだけで頑なに首を縦には振らなかった。
「……雪月先生があやかしに対して持ってらっしゃる印象って、良いものなんですね」
華乃子はお茶を淹れながら雪月に話し掛けた。雪月が手を止めて華乃子を見る。
「……私、あやかしって正直好きになれないんです。……古臭いし、今をときめく活劇の題材にだってならないですよ」
暗に雪月の作品が古いと言ったようなものだった。それでも雪月は柔和な笑みを崩さない。
「僕は日本人とともに生きてきた神やあやかしたたちをいとおしいと思ってますよ。あやかしは人間にとても近い。だからこそ、日本人はあやかしを受け入れてきたんだと思うんです。明治維新以降、世の中は急速に西洋化していて、日本古来の古きよきものが見失われようとしている。僕は世の中が見えないものを信じなくなった世の中に一石を投じているつもりなんです」
雪月はそう言うが、そんなの、あやかしが絵空事だと思っているから言えることだ。今だって男性の家に上がり込む華乃子に雪月がいたずらをしないか、太助と白飛が部屋の隅でじっと監視している。大人しくしていろと言い聞かせたから今はまだいたずらを働いていないけど、時間が経てば原稿用紙を飛ばしたり資料の本の頁を舐めたりといたずらするんだろうと思う。それを苦に思わないのは風や雨が掛かったと思うからであって、あやかしたちが気まぐれにいたずらをしていると知ったら、鬱陶しくてたまらないと思う。
「時代は新しいことを求めています。……雪月先生にも、新しいことに挑戦していただきたいと思います」
頑なな雪月に頑なな華乃子が応じる。雪月は困ったように笑って、どうしたんですか、と華乃子に言った。
「そんなにあやかしが嫌いですか?」
問われるまでもない。嫌いだ。しかしそう応えると、雪月の作品を否定してしまうようで言えなかった。
「どうしてそんなに嫌いなんですか……?」
穏やかな口調は春の日差しのようにあたたかい。華乃子は雪月の醸し出すやさしい雰囲気につられて、辛かった子供の頃の話をぽろりと零した。
「……私、……実は、あやかしが少し、視えるんです」