「桜、帰ろ!」

 今日から部活で一緒に帰れないんだろうと思ってたのに、意外にも琴乃はいつも通りに声をかけてきた。

「ごめん、琴乃。今日、委員会の仕事あるんだ。先帰ってて」

「桜、委員会なんて入ってたっけ?」

 琴乃が不思議そうに聞いてきた。

「うん、ちょっと。琴乃も部活で忙しくなるみたいだし、暇つぶしにちょうどいいかなって」

 何でこんなどうしようもない噓ついてるんだろうな。全部が全部嘘じゃないけど、自主的にやろうとしたかのように語るのはちょっとした粉飾ではだろうか。

「そっかー。頑張りすぎの桜が体調崩さないかちょっと心配」

「大丈夫だよ。そんなに大変な委員会じゃないから」

「そう、それなら安心した。でも、何か困ったことがあったら相談してね」

「ありがとう。琴乃は今日部活じゃないの?」

「うん。部活に入るっていってもマネージャーだから毎日あるわけじゃないの」

「そうなんだ。あっ、私もう行かなきゃ。じゃあね」

 私は走って委員会のある小会議室に向かう。これからもまた、琴乃と一緒に帰れるかもしれない。

 私は生ぬるい安心に浸っていた。

 
 委員会は案外早く終わった。
 
 今日はとりわけ仕事がない日だったようだ。まだ四時半も過ぎていないし、まっすぐ帰るにはもったいない。
 
 こんなことなら琴乃に委員会が終わるまで待っててもらえばよかったな。

 言えば待っててくれたかな?ーー絶対待っててくれた。
 
 ちょっと前までならそう言い切れたはずなのに、今は大人っぽくなった琴乃の姿が頭をよぎる。髪型も、持ち物も、女子高校生の流行の最先端をいっていた。
 
 何もかも一緒だと思っていたのは、もしかしたら私だけだったのかもしれない。そんな不安が持ち上がってくる。

 ゆらゆらとした気持ちに任せて歩いていると、急に視界が開けて無数の光の線が目に飛び込んできた。

 ああ、渡り廊下に出たのか。
 
 耳の奧に、甲高く響くホイッスルの音が飛び込んでくる。
 
 叫ぶ声。泥の音。打撃音。音という音が私の中に入って来て思考回路を破壊していく。

 つまずいたかのようにぎこちないステップを踏んで足先が音の生まれる方を向く。

 目の前には水平線のように運動場が広がっていた。
 
 まだ太陽が落ち始めているわけでもないのに、光線のようにその風景が目に焼き付いて眩しい。

 バットに打たれて飛んでいくボールの影も、走る振動で飛び散る汗の煌めきも、私にははっきり見て取れた。

 今思えば、ずいぶんと長く放課後の運動場を見ていない。誰かが部活動をしている姿を見るのは入学したての部活動見学以来だ。

 部活をしている人って、こんなに輝いて見えるんだな。

 自然とため息が出た。

 目の前を爽やかな風の軌道が通り過ぎていく。陸上部の子が百メートル走の練習をしていた。

 走るのが好きな人が、たまに気持ちよく走ることを「風と一体化する」って表現するけど、走り抜けていく子たちは、まさしくそれを体現していた。
 
 私にはどんな気分なのか分からないし、本当に体現していることを証明なんてできない。
 
 でも、彼らの生き生きした表情を見ていると、きっとそうなんだろうって思う。

 あんなに速く走れたら気持ちいいんだろうな。運動音痴の私には想像もできないけれど。

 もし神様が私を運動も勉強もできる器用な人間に作ってくれたなら、私はこの果てしない光の中へ飛び込んで行けただろうか。

 生産性のない問いが頭の中に浮かんで来る。

 こんなこと考えてるからしょうもない人間のままなんだな。

 自嘲の笑みを漏らした私の頬を、風が静かに撫でていく。

 ふと、私の視線は一人の男子を捉えた。

 高身長で爽やかな笑顔の彼は、たくさんの女子に囲まれて楽しそうにしゃべっていた。

 クラス委員の岡本君だ。

 顔も性格もイケメンと評判で、学校の有名人らしい。私は女子の間の流行とか噂とかに疎いけど、一応同じクラスだし、そうとうな噂になっているので顔と名前くらいは知っている。

 とは言っても特に話したことがあるわけでもなく、向こうに関しては私の名前さえ知らないだろう。

 文理混合クラスは体育以外の授業は一緒に受けないので、クラスメイトでも名前を知らないということはあり得ることだ。

 岡本君、あんな風に女子としゃべったりするんだ、意外。

 まあ、どっちだって私には関係ない。彼みたいなキラキラした人種と私みたいな陰の人間は交わらない運命なのだから。

 また、ホイッスルが鳴って陸上部の子たちが一斉に走り出す。

 生徒たちが駆け抜けた後ろには虹のような、何か煌めくようなものが描き出されていく気がした。

 私は数歩前に踏み出す。そして、すぐにその足を止めた。

 グラウンドに一歩足を踏み出せば簡単に向こう側に行けてしまいそうだけど、いざ踏みこもうとするとそこには私には越えられない確かな壁がある。

 私は、あっちの世界には行けない。それなのに目の前の光景は色褪せるどころか、ますます鮮やかに彩られていく。

 綺麗な景色を見て不快な気分になることって人生で何度あるだろう。

 時間つぶししてたってろくなことがない。やっぱりすぐに家に帰ろう。

 私は運動場を後にした。