「失礼します」
 
 数学研究室に着くと、先生はコーヒーを片手に文庫本を読んでいた。教室では自分が担任をしているクラスが学校祭について会議しているというのに、優雅なものだ。ノートチェックと同じくらい生徒の教育にも熱心になってもらいたい。

「遅かったな。ノート、そこに置いてあるから。本当は明日に返そうと思ったんだが、それだとお前ら今日の宿題やるのに困るだろ」

「そうですね」

 先生と話すのはなんだか緊張してしまうので、私は当たり障りのない相槌を打つだけだ。

 重いノートを抱えてふらつきながら教室に戻った時には、もうだいぶ時間が経ってしまっていたらしい。
 
 すでに黒板に貼られた模造紙の「演者」の欄はすべて埋まっていた。

 お姫様役は……やっぱり琴乃か。さすがだな。

「お疲れ、桜」

 ロッカーの上の空いたスペースにノートを置いて席に戻ると、琴乃が小さくねぎらいの言葉をかけてきた。

 「あ、これ桜がいないうちに配られた書類ね」

 クラスでは未決定役職の話し合いが続けられているというのに、琴乃はお構いなしに話し続ける。

「これが、クラスTシャツのデザイン募集とサイズ確認の書類ね。サイズ確認の方は来週の月曜日までの提出ってなってるけど、自分のサイズに丸つけるだけだから今書いちゃいなよ。私、一緒に出しといてあげる」

 私は琴乃の言った通り自分の名前を書き、Sというところに丸をつけて紙を渡した。

「あと、これは部活の大会が学校祭当日と被っちゃった人が出す公欠届の書類だから帰宅部の桜には関係ないでしょ。で、こっちは学校祭期間中だけの仮の駐輪場の案内。ほら、駐輪場作業場になって使えなくなるから。まー、で
も桜はふだん歩いて学校来るから関係ないか」

「そうだね。たまに買い出し頼まれた時に自転車使ったりするけど」

 もしかしたら必要になるかもしれないのでクリアファイルに丁寧にしまっておく。

「あと、これは作業可能時間のスケジュール表。基本夜は七時までで、学校祭一週間前から朝の作業ができるようになるみたい」

「また、忙しくなるね」

「浮かれるのは早いよ、桜。学校祭の前にまずは中間テスト、でしょ」

「そうだった」

 琴乃に言われて思い出した。楽しみの前には必ず一山乗り越えなければないらしい。

 キーンコーンカーンコーン。

 琴乃と雑談をしているうちに授業が終わった。授業中に役職が決まらなかった人は引き続き放課後に話し合いをするようだ。クラス委員の二人と数人の男女が教卓の前に集まっている。そんな彼らにどこか気の毒そうな一瞥をくれてから、他の生徒はドアの向こうの自由な空間へと消えてゆく。

「私たちも帰ろうか、桜」

 琴乃が、荷物をまとめている私のもとに寄って来た。

「うん、そうだね」

「あ、そうだ。この間、駅前に新しいカフェが出来たんだって。寄ってかない?」

「え、そうなの!いくいく!」
 
 私は財布の中身を確認せずに即答した。

 こうやってたまに琴乃と放課後デートするのがささやかな私の楽しみだ。