あと、ちょっと。あともう少しで数学研究室につく。
もう一人の数学教科委員の男子に押し付けられた全員分のノートを運びながら、心の中でそう唱えた。そうでもしないと、あまりの重さに腕も心も折れてしまいそうだ。
死角になっている廊下の先から凄まじい足音が聞こえる。
近づいてるな。そう思いながらも、ノートの山を抱え込んでいるせいで足元はおぼつかい。
廊下の向こう側から飛び出してきた人影に瞬時に対応するだけの余裕は、やはり残されていなかった。
「うわっ」
私は情けない声を出して床に転がる。三年生の教室が立ち並ぶ第一校舎三階の廊下の一か所は直角に曲がっており、向こう側から歩いてくる学生の姿がほとんど見えない。生徒同士の衝突は日常茶飯事だ。
「あ、教科書が……」
床に放り出される私と同時に、私の腕の中の三十人分のノートも宙に投げ出され、無様にリノリウムに打ちつけられる。
「え、えっと、これが安西さんので、これが井上君ので、これが……」
「ちっ。なんだよ、危ねぇな」
床に散らばってしまった教科書をどれから拾えばいいのか分からずにあたふたしていると、頭上から男子生徒の舌打ちが聞こえた。
「……」
きつい口調にひるんだ私は、何の言葉も発することが出来なかった。
「無視してんじゃねぇよ。ちゃんと前見て歩けってんだ」
「あ、ご、ごめん」
辛うじて発することが出来たのはたった一言。
意図したよりも出て来た声がずいぶんと小さくて、我ながらあきれてしまう。どうして堂々としゃべることができないんだろう。
「何ちんたら拾ってんだよ。マジじゃまなんだけど」
さっきとは違う男子の声が聞こえてきた。
「お前、もしかしてコイツにぶつかられたの?ウケるんだけど」
「笑えねぇよ。マジむかつくわ」
「学校の廊下で衝突って、恋の始まりじゃん!」
「やめろよ、縁起でもない。こんな芋女とじゃ青春の無駄遣いだよ。あーあ、こいつが結木みたいな美少女だったらよかったのに」
ケラケラと笑う男子たち。私はただ黙々とノートを出席番号順に拾い集めていた。
もし私が琴乃みたいに美少女だったら、この男子たちは一緒に教科書を拾ってくれていただろうか。
「笑ってないで手伝いなよ。あんたが桜に突っ込んだんじゃないの」
凛とした声が廊下に響き渡った。この声……琴乃だ!
私は心の中で快哉を叫び、はっと顔をあげた。
「げっ、噂をすれば結木琴乃、登場かよ」
救世主の登場に私は歓喜し、男子たちは後ずさる。親友の琴乃は男子たちを挟んで私と対をなす位置に堂々と立っていた。腕を組んで若干右足に体重をかけた佇まいは、その手足が長すぎるゆえに本物のモデルさんのようだ。
どうしてあんなに堂々としていられるんだろうな。
こんな時なのにどうしようもない問いが私の頭に浮かぶ。
「うわっ、怒ってても可愛いな」
ひるんだのも一瞬。驚きが薄れてくると、学校のマドンナを目前にした男子たちの顔はふやけるように崩れ出し、頬には赤みがさす。
この場にそぐわない思考をしているのは男子たちも同じようだ。
「ちゃんと桜に謝りなさいよ」
自分より頭一つ分大分きい男子を見あげながら昂然と言い放つ琴乃。
「もう、いいって。私も、もっと注意しておくべきだったし」
「桜はこんなに重い荷物持って歩いてたんでしょ。そんなの手ぶらで走って来た方がよけるべきに決まってるじゃない。それに、桜はちゃんと気づいてよけようとしてた。私、ちゃんと見てたんだから」
少しくらい理不尽なことでも私がちょっと我慢すれば丸く収まることもある。私はいつだってそうやって泣き寝入りを重ねてきた。
でも、琴乃は違う。間違っていると思うことははっきり否定できる子だ。
どうしてこんなにかっこよくいられるんだろうな。
「あー、分かった分かった。俺が悪かったって。ごめんな」
さっきまで悪態をついていた男子は、案外あっさり誤って私の足元に散らばっているノートを拾い始めた。学校のマドンナには嫌われたくないんだろう。
それを見た琴乃も一緒にノートを拾い始める。
「だいたい武田の奴が桜に全部仕事押し付けたのが悪いんだからね。後で絞めてやるんだから」
ぶつぶつ言いながら手際よくノートを集めて整頓する琴乃。
「ありがとう」
私がお礼を言うと笑顔で軽く首を振った。
「これくらい当然でしょ。親友だもん」
そういってクシャッと笑う。
こういう臭いセリフを吐いてもおかしくないのは、きっと飾らない本心からの言葉だからだろう。
「ほんとごめんな。次からは気を付けるわ」
全部のノートを拾い合えるとぶつかって来た男子は申し訳なさそうに一言添えて去っていった。
「まぁ、反省してるみたいだし、許してあげましょうか」
その後ろ姿を見ながら琴乃が言った。
「……そうだね」
違うよ、琴乃。あの男子は私に謝ったんじゃない。琴乃に謝ったんだよ。琴乃は私と違って可愛いから、琴乃はみんなの憧れだから。
私はその言葉を飲み込んだ。
「でも、桜もダメだよ。なんでもかんでも引き受けちゃ。ほんとにお人よしなんだから」
琴乃がため息交じりに言う。
「でも、武田くん黒板消してくれたし」
「それだよ!楽な仕事選んで大変な方を桜に押し付けてるじゃん」
やっぱり一言言ってやる、とつぶやきながら琴乃は私と並んで廊下を歩いていた。
視線を感じる。
琴乃と歩いているといつもそうだ。もちろんそれは私に向けられているものではないけど、いつも空気のように扱われている私にとっては自分の方に意味を持って向けられるものには敏感になってしまう。
琴乃はすごくかわいくて、しっかりもので、頼りになる。成績も優秀で学年を問わず学校中の生徒から一目置かれている存在だ。
そして、私の一番の親友で、憧れの人。
小学生のころからまっすぐな性格は変わらず、自分が正しいと思うことをやろうとするし、そうでないと思うことははっきりと相手に言う。
たまにその真っ直ぐさが仇となって喧嘩になりかけることもあるけど、それでもやっぱり私は琴乃のことがかっこいいと思う。
もし願いが三つ叶うと言われたなら、そのうちの一つは、生まれ変わったら琴乃になることに使うだろう。
「ほんとノート重かったな~。半分でもあれだけ重かったのに、桜よく全部持てたよね」
「落としちゃったけどね」
私は苦笑いしながら答える。
「気にしないの。あっ、次ロングホームルームじゃん。めんどくさー」
「そっか、この後ロングホームルームか。学校祭のこと話すんだっけ?」
「確か今日係決めだよね。桜、今年は去年みたいに役職二個も掛け持ちしないようにね。頑張りすぎて倒れちゃったら、もとも粉もないでしょ」
「うん」
思い出した。去年は買い出しの係がなかなか決まらなくて、散々話し合いが長引いた挙句、困り果てたクラス委員が後でこっそり頼み込んできたのだ。
外装のペンキ塗りも担当していて、忙しい役職を二個も受け持つのは本心としては受けれ難かったが、すがるような目でお願いしてくるクラス委員を前に首を横に振ることは出来なかった。
やってみたら案の定、体力的にも時間的にも限界で、琴乃と琴乃が集めてきてくれた助っ人の力を借りてやっとのことで仕事を片づけることが出来た。
もう一人の数学教科委員の男子に押し付けられた全員分のノートを運びながら、心の中でそう唱えた。そうでもしないと、あまりの重さに腕も心も折れてしまいそうだ。
死角になっている廊下の先から凄まじい足音が聞こえる。
近づいてるな。そう思いながらも、ノートの山を抱え込んでいるせいで足元はおぼつかい。
廊下の向こう側から飛び出してきた人影に瞬時に対応するだけの余裕は、やはり残されていなかった。
「うわっ」
私は情けない声を出して床に転がる。三年生の教室が立ち並ぶ第一校舎三階の廊下の一か所は直角に曲がっており、向こう側から歩いてくる学生の姿がほとんど見えない。生徒同士の衝突は日常茶飯事だ。
「あ、教科書が……」
床に放り出される私と同時に、私の腕の中の三十人分のノートも宙に投げ出され、無様にリノリウムに打ちつけられる。
「え、えっと、これが安西さんので、これが井上君ので、これが……」
「ちっ。なんだよ、危ねぇな」
床に散らばってしまった教科書をどれから拾えばいいのか分からずにあたふたしていると、頭上から男子生徒の舌打ちが聞こえた。
「……」
きつい口調にひるんだ私は、何の言葉も発することが出来なかった。
「無視してんじゃねぇよ。ちゃんと前見て歩けってんだ」
「あ、ご、ごめん」
辛うじて発することが出来たのはたった一言。
意図したよりも出て来た声がずいぶんと小さくて、我ながらあきれてしまう。どうして堂々としゃべることができないんだろう。
「何ちんたら拾ってんだよ。マジじゃまなんだけど」
さっきとは違う男子の声が聞こえてきた。
「お前、もしかしてコイツにぶつかられたの?ウケるんだけど」
「笑えねぇよ。マジむかつくわ」
「学校の廊下で衝突って、恋の始まりじゃん!」
「やめろよ、縁起でもない。こんな芋女とじゃ青春の無駄遣いだよ。あーあ、こいつが結木みたいな美少女だったらよかったのに」
ケラケラと笑う男子たち。私はただ黙々とノートを出席番号順に拾い集めていた。
もし私が琴乃みたいに美少女だったら、この男子たちは一緒に教科書を拾ってくれていただろうか。
「笑ってないで手伝いなよ。あんたが桜に突っ込んだんじゃないの」
凛とした声が廊下に響き渡った。この声……琴乃だ!
私は心の中で快哉を叫び、はっと顔をあげた。
「げっ、噂をすれば結木琴乃、登場かよ」
救世主の登場に私は歓喜し、男子たちは後ずさる。親友の琴乃は男子たちを挟んで私と対をなす位置に堂々と立っていた。腕を組んで若干右足に体重をかけた佇まいは、その手足が長すぎるゆえに本物のモデルさんのようだ。
どうしてあんなに堂々としていられるんだろうな。
こんな時なのにどうしようもない問いが私の頭に浮かぶ。
「うわっ、怒ってても可愛いな」
ひるんだのも一瞬。驚きが薄れてくると、学校のマドンナを目前にした男子たちの顔はふやけるように崩れ出し、頬には赤みがさす。
この場にそぐわない思考をしているのは男子たちも同じようだ。
「ちゃんと桜に謝りなさいよ」
自分より頭一つ分大分きい男子を見あげながら昂然と言い放つ琴乃。
「もう、いいって。私も、もっと注意しておくべきだったし」
「桜はこんなに重い荷物持って歩いてたんでしょ。そんなの手ぶらで走って来た方がよけるべきに決まってるじゃない。それに、桜はちゃんと気づいてよけようとしてた。私、ちゃんと見てたんだから」
少しくらい理不尽なことでも私がちょっと我慢すれば丸く収まることもある。私はいつだってそうやって泣き寝入りを重ねてきた。
でも、琴乃は違う。間違っていると思うことははっきり否定できる子だ。
どうしてこんなにかっこよくいられるんだろうな。
「あー、分かった分かった。俺が悪かったって。ごめんな」
さっきまで悪態をついていた男子は、案外あっさり誤って私の足元に散らばっているノートを拾い始めた。学校のマドンナには嫌われたくないんだろう。
それを見た琴乃も一緒にノートを拾い始める。
「だいたい武田の奴が桜に全部仕事押し付けたのが悪いんだからね。後で絞めてやるんだから」
ぶつぶつ言いながら手際よくノートを集めて整頓する琴乃。
「ありがとう」
私がお礼を言うと笑顔で軽く首を振った。
「これくらい当然でしょ。親友だもん」
そういってクシャッと笑う。
こういう臭いセリフを吐いてもおかしくないのは、きっと飾らない本心からの言葉だからだろう。
「ほんとごめんな。次からは気を付けるわ」
全部のノートを拾い合えるとぶつかって来た男子は申し訳なさそうに一言添えて去っていった。
「まぁ、反省してるみたいだし、許してあげましょうか」
その後ろ姿を見ながら琴乃が言った。
「……そうだね」
違うよ、琴乃。あの男子は私に謝ったんじゃない。琴乃に謝ったんだよ。琴乃は私と違って可愛いから、琴乃はみんなの憧れだから。
私はその言葉を飲み込んだ。
「でも、桜もダメだよ。なんでもかんでも引き受けちゃ。ほんとにお人よしなんだから」
琴乃がため息交じりに言う。
「でも、武田くん黒板消してくれたし」
「それだよ!楽な仕事選んで大変な方を桜に押し付けてるじゃん」
やっぱり一言言ってやる、とつぶやきながら琴乃は私と並んで廊下を歩いていた。
視線を感じる。
琴乃と歩いているといつもそうだ。もちろんそれは私に向けられているものではないけど、いつも空気のように扱われている私にとっては自分の方に意味を持って向けられるものには敏感になってしまう。
琴乃はすごくかわいくて、しっかりもので、頼りになる。成績も優秀で学年を問わず学校中の生徒から一目置かれている存在だ。
そして、私の一番の親友で、憧れの人。
小学生のころからまっすぐな性格は変わらず、自分が正しいと思うことをやろうとするし、そうでないと思うことははっきりと相手に言う。
たまにその真っ直ぐさが仇となって喧嘩になりかけることもあるけど、それでもやっぱり私は琴乃のことがかっこいいと思う。
もし願いが三つ叶うと言われたなら、そのうちの一つは、生まれ変わったら琴乃になることに使うだろう。
「ほんとノート重かったな~。半分でもあれだけ重かったのに、桜よく全部持てたよね」
「落としちゃったけどね」
私は苦笑いしながら答える。
「気にしないの。あっ、次ロングホームルームじゃん。めんどくさー」
「そっか、この後ロングホームルームか。学校祭のこと話すんだっけ?」
「確か今日係決めだよね。桜、今年は去年みたいに役職二個も掛け持ちしないようにね。頑張りすぎて倒れちゃったら、もとも粉もないでしょ」
「うん」
思い出した。去年は買い出しの係がなかなか決まらなくて、散々話し合いが長引いた挙句、困り果てたクラス委員が後でこっそり頼み込んできたのだ。
外装のペンキ塗りも担当していて、忙しい役職を二個も受け持つのは本心としては受けれ難かったが、すがるような目でお願いしてくるクラス委員を前に首を横に振ることは出来なかった。
やってみたら案の定、体力的にも時間的にも限界で、琴乃と琴乃が集めてきてくれた助っ人の力を借りてやっとのことで仕事を片づけることが出来た。