何度目かのため息をついた直後、とても控えめなノックの音が聞こえてきた。

「どーぞー」

 なんだか声も投げやりだ。ゆっくりとドアが開く、そこにいたのはとても小さい姿……エミリアちゃんだった。私は生クリームを泡立てる手を止めた。

***

「なんだ、もったいない。せっかく元の世界に帰ることのできる絶好のチャンスだったのに」

 ジョセフは調理室の掃除を手伝いながら、そう漏らした。自由になりたいジョセフならそう思うだろう。

「でも、私の『目的』はまだ達成されてないしね。もうちょっと魔国で頑張っていくことにするって決めたの」

 心機一転。気持ちを入れ替えるために、まずは調理室の大掃除。私は調理台を磨きながら、あの晩の、エミリアちゃんとの会話を思い出していた。

「エミリアちゃん。どうしたの? お腹空いたの?」

 私がそう聞くと、エミリアちゃんは頭を横に振った。エミリアちゃんは下を向いてもごもごと口を動かしている。何か伝えたいことがあるみたいだ。私は、彼女が口を開くのをじっと待った。

「あのね……コユキ、もとのせかいに帰るの?」
「……え?」
「おとうさまがおはなししてたの。コユキは、もとのせかいに帰るからおわかれのあいさつしなさいって。だから、だから……」

 ポトリ、と地面に水滴が落ちる。それはエミリアちゃんの涙であることはすぐに分かった。

「コユキ、いままで、ありがと。げんきでね」

 ゆっくり紡がれていく私への別れの言葉。それと同時に、スポンジが焼けるアラームが聞こえてきた。

「ねえ、エミリアちゃん」

 エミリアちゃんは下を向いたまま、袖で涙を拭っている。ぐずぐずと鼻をすする音も聞こえてきた。

「一緒にケーキつくらない?」
「……え?」

 私は生クリームとイチゴ、スポンジを調理台に乗せる。エミリアちゃんは目から涙をこぼしつつも、ぽかんとした顔で私を見つめていた。

「ケーキ?」
「うん。食べたくなっちゃったから作ったの。一緒に食べようよ」
「……うん!」

 エミリアちゃんが作業をしやすいように台に乗せる。さっきまで泣いていたはずのエミリアちゃんはケーキの材料を見て、目を輝かせていた。

「私がクリーム塗るから、エミリアちゃんはトッピングをお願い」
「わかったわ!」

 冷ましたスポンジを半分に切り、断面にクリームを塗り広げる。エミリアちゃんと協力してイチゴを散らして、またクリームを塗って、スポンジを重ねる。ケーキのてっぺんや側面にクリームを塗ったら、今度はエミリアちゃんの出番。絞り袋にクリームを入れて渡すと、ゆっくりとトッピングを始める。

「う……むずかしい……」
「がんばれ、上手!」

 クリームのラインは途中で途切れたり、まがったり。エミリアちゃんは「うー」と唸りながら、でも笑顔で続けていく。そして、思い思いの場所にイチゴを並べながら、ぽつりと呟いた。

「たべものをつくるって、こんなにたいへんなのね」
「え?」
「だって、コユキもスライムも、いっつも平気そうなかおをしているじゃない! もっとかんたんにできるとおもってた」
「あはは、なるほど!」

 私はお茶を淹れて、ケーキをカットする。一番大きなイチゴが乗っている部分をエミリアちゃんに渡すと、にんまりと嬉しそうに笑った。先ほどまで泣いていたとは思えないくらい、良い笑顔だった。

「あのね、エミリアちゃん」
「なあに?」

 エミリアちゃんは大きなイチゴをパクリッと食べてしまう。その表情がとても嬉しそうで……私は、もっとこんな表情を見たいんだと思った。

「私、もう少しだけこの世界にいようと思うの」
「え?! どうして? コユキ、元の世界にかえりたいんじゃないの?」
「うーん、それはそうなんだけどね……」

 エミリアちゃんの頬についたクリームをナフキンでふき取る。

「ケーキを食べる時みたいに、ニコニコ笑いながら野菜を食べるエミリアちゃんの姿が見てみたいなって思って」
「……えー。それ、コユキ、ぜったいに帰れなくなるよ」
「大丈夫! 私には、背中を押してくれるお母さんがいるから!」

 エミリアちゃんはきょとんと首を傾げる。その姿を見て、私から自然と笑みが溢れ出していた。お母さんはここにいなくても、きっと応援してくれるはずだ。そう考えると、私の『目標』までの距離はそう遠くないような気がした。

「エミリアちゃん、ケーキ、レオさんのところに持って行こう。私もお話したいし」
「うん! あ、きっとエゴールもいるから、エゴールのぶんももっていっていい?」
「もちろん!」

 私はケーキを更に切り分ける。残り半分になったホールケーキを冷蔵庫に仕舞い、ケーキと紅茶を淹れたポットを配膳台に置く。それを押して、再び執務室に向かった。ノックするとすぐにレオさんの声が聞こえてきた。