「あの日って、アタシほっとんど記憶がないんだよね。タクシーに乗って、運転手さんに住所言ったとこまでは覚えてんだけど……」
「ちょいちょいちょいちょい!」

 僕はすかさず否定の「ちょい」を連呼する。

「いい加減な記憶で塗り固めないで下さい! あん時は僕が、アパートまで和華乃さんおぶっていったんですから」
「えっ! うそ!?」

 彼女は目を丸くする。

「そんな嘘ついてどーすんですか。先輩からなんとか住所聞き出して、スマホで場所を確認しながら歩いたんですよ!?」
「えぇ~、じゃああの時住所教えたのって、運転手さんじゃなくて駿吾だったの??」
「そうですよ、ったく……」

 僕はため息交じりに、グラスの中の液体を口に含んだ。ソムリエが鮮やかな手付きで開栓して注いだそれは、なるほど確かに美味かった。酸味があるけどやわらかい、渋みはあるけど邪魔じゃない。そして喉に流し込むとフルーツのようなミルクのようなあるいはお香のような、説明のしようがない複雑な香りが鼻を突き抜け、消える。
 普段、居酒屋で雑に飲んでいるワインでは感じられない味と香りだった。あの日、慣れない手付きで持ったグラス。そこに注がれたバローロにもこういう香りがあったんだろうか?

「えー、でもさ、おかしいってやっぱ」
「何がです」
「あんた、アタシのこと大好きだったじゃん。そんなシチュでよく襲わなかったね?」
「ブッ!」

 あやうく、手にしていたグラスを床に落としそうになった。

「何言い出すんすか! ……ていうかどうしてそれを!?」

 耳が熱を帯びるのを感じた。

「ぷっ……今更すぎるでしょ? バイトメンバー全員知ってたよ?」
「なっ……あっ……!?」

 アルコールで血行が良くなっているせいもあってか、顔面に血が集中していく。数年後しに暴露された事実にうろたえる。
 ただ、どこかで「まぁ、そうだよな」というつぶやく冷静な自分もいた。思い返してみれば、はっきりとわかる。僕の和華乃さんにたいする好意は、わかりやす過ぎる程ににわかりやすかったと思う。どう返せばいいのか考えている僕に、和華乃さんは容赦なく追撃をかましてくる。

「片思いの相手が泥酔して、その子を部屋まで送りに行ったんだよ? それで男がすることなんて一つでしょ?」
「わ、和華乃さん、いくら僕たち二人だからって、そういうの辞めましょうね?」

 時刻はまだようやく正午を回ったあたりだ。そういう話をするような時間じゃない。いや、そもそも観光地にレストランでする話ではない。聞こえてないのか、聞こえてないふりをしているのか、さっきまでグラスの中身が減るとすかさずやってきたウェイターも。こちらの方を向いていなかった。

「ふふっ、なんてね。ごめんごめん、久しぶりにからかいたくなっちゃったよ」

 微笑みを含んだ顔のまま、彼女は謝る。

「駿吾は紳士だからねー。アタシ、その時の記憶まったくないんだけど、多分駿吾のこと信頼してたんだと思うよ?」
「そんな……信頼って……」

 実の所、襲わなかったんじゃない。襲えなかったんだけどな。僕は頭の中だけでつぶやいた。