駅から見えた細長い建物は宿泊施設だったらしい。その横には売店とレストランが入っている円形の建物が連なっている。さらに美術館もあるようだったが、時節柄休業中のようだ。大人数での会食や旅行をためらわれる今の世の中。平日昼前からこの観光施設を訪れているのは、衝動的に会社をサボったサラリーマンと、なぜか喪服を着ている若い女の二人だけだった。
 ワインのボトルが所狭しと並ぶ売店の見て、不意に後ろめたさを覚える。本当なら今頃、昨日の定時チャイム寸前に振られた仕事について、ダメ出しを食らっている時間だ。

「僕たちだけみたいですね……」
「ここにくるまでもウチらだけだったしね」
「駐車場はあるから、土日はクルマ客が多いのかも」
「ええ~、でもワインがメインの所にクルマで来る?」
「あ~……それならバスツアーのおばちゃん軍団とか?」
「あはっそれはありそう。ここでワイン飲んで、信玄餅の工場見学して~みたいな?」
「まぁ、今はバスツアーなんてやってないでしょうけどね」

 とりとめもない話をしながら、売店の奥にある階段を登る。階上には展望レストランがあるとの事だったので、まずはそこで食事しようという話になった。

「うわっ、すごい。いい眺めじゃん!」

 全面ガラス張りの店内からは、甲州のぶどう畑が一望できた。にこやかに応対したウェイターが、僕らをテーブル席に案内する。さり気なく椅子を引いて着座を促してくれる。僕が座ったのは、彼女の向かい側ではなく隣の席だった。二人で並んで、眼前のパノラマを楽しむ形だ。スーツと喪服。観光地には珍奇な服装はともかく、ウェイターは僕らを日帰り旅行の恋人と受け取ったようだった。
 そういえば、こういう形で二人で座るのは初めてかもしれない。右の頬が熱くなった。錯覚だとは思うけど、彼女から発せられる熱が右半身に当たっているように感じた。

「ねえ、せっかく出しちょっとイイやつ頼もうよ」

 彼女は少しはしゃいだ感じで言った。ランチメニューの一番上にある"限定ランチ"なるものを頼む。ウェイターいわく、甲州牛のステーキらしい。

「えっと、ワインよくわからないんですけど、ステーキには何が合いますか?」
「軽めがよろしいですか? それとも重めにしましょうか?」
「えっとそれなら少し軽いほうがいいかな、お昼だし」
「それでしたら、こちらの……」

 和華乃さんはドリンクリストを見ながらウェイターと話を進めている。こういうのは彼女に任せておけば問題ない。僕はこういう所で店員に相談するようなスキルがない。何か気後れして、当たり障りのない安めのグラスワインを頼むのがせいぜいだ。その点、和華乃さんは持ち前のフランクさと何位でも興味を持つ好奇心で、先へ先へと進んでいく。二人でよく遊んでいたあの頃、この人のおかげで色々な新しいものに巡り会えた。

 あ、ワインと言えば……

 唐突に思い出した。確か和華乃さんが行きたいと言っていたイタリアンレストランに付き合ったときだ。

「ねえ、そう言えば二人で慣れない飲み方してフラッフラになりながら帰ったことあったよね?」

 注文を終えた和華乃さんも、同じこと思い出していたようだ。

「まったくあのときは参りましたよ。えーっとバローロ、でしたっけ?」
「そうそう!」

 確か、発端は彼女が読んでいた漫画だったと思う。なんでもイタリアマフィアのボスが、祖国の宝としてバローロ村のワインを称賛するシーンがあったらしい。漫画に出てきた固有名詞をリストの中に見つけ、和華乃さんのテンションは上がっていた。

『ねえ、これ飲んでみたい』

 彼女は目を輝かせていた。一方で僕は、横に並ぶ数字を見て一瞬だけためらった。けどその日はバイトの給料日で、2人とも財布の紐が緩んでいたこともあり、その贅沢を楽しむことになったのだ。(今思えば、バローロの中でも安い方だったんだろうけど……)

 残念ながら味についてはよく覚えていない。というよりわかっていなかったんだろう。典型的な豚に真珠だ。豚に真珠、猫に小判、貧乏学生にバローロ。覚えているのは、慣れない本格ワインに完全にやられて二人で酔っ払いながら、夜の道を歩いたことだけだった。