「何言ってんすか? 少なくとも僕は、楽しかったですよ?」
「え?」

 和華乃さんは顔を上げた。

「そりゃまぁ、あの日の夜はヘコみました。それから今日まで、和華乃さんのことずっと、忘れられなくて……辛くなかったと言えば嘘になります」

 そう、それは間違いない。無駄に濃厚なスキンシップ、からかうような態度、常に楽しそうな笑顔。そういうのに人生狂わされた。そんな見方も確かにできる。

「でもそれ以上に、楽しくないですか? 200種類のワインから、同じ銘柄を選んじゃくらい波長合う者同士なんですよ? 僕はそれを、利用とか酷いこととか、そんな言葉で片付けられたくないです!」
「駿吾……」

 和華乃さんはぽかんと口を開けて、僕の顔を見つめる。けどやがて、こらえきれなかったように吹き出した。

「……ぷッ! なにソレ? 駿吾のくせにキザな……似合わないよ?」
「…………」

 ひどすぎる。でも、ひどいことしてゴメンナサイ、なんて言われるよりはるかに良かった。

「ちょっと下に降りません?」

 展望デッキには階段があり、一段低いところに降りられるようになっていた。低いと言っても数メートルで、目の前に広がる真っ赤な景色は変わらない。僕と和華乃さんはグラスを片手に、階段を降りる。そこには金属プレートがあしらわれた大きなワイン樽が飾られている。プレートには『恋人の聖地』という、今の僕たちにはあまりにも皮肉が言葉が刻まれていた。その横の手すりには、ハート型の南京錠がびっしりと取り付けられている。多分この南京錠を二人で取り付ければ幸せになれる、みたいなジンクスがあるんだろう。けど、僕が階段を降りたのはこれを見るためじゃない。

「えいや!」

 僕はその手すりから少し身を乗り出すと、グラスの中の液体を空に向かってぶちまけた。

「ちょっ!? 何してんの駿吾!!」
「さっき地図アプリで調べたんですよ。ここから見えるあの街が甲府です!」

 風呂を出た後、和華乃さんを待つ間に調べたのだ。露天風呂から見た景色がどの方角のものなのか。日暮れが近づき、電灯の光が輝き始める遠くの市街地。そこのどこかに、和華乃さんの大切な人は眠っているはずだ。

「ほら、よくあるじゃないですか? 手向けの酒っていうんですか? 死んだ友人や恋人の墓石にお酒注ぐって……」
「映画とかでよくあるやつ?」
「そうそれ!! 別にそれで踏ん切りつけろとか言わないですけど、少しはスッとするんじゃないかなって」
「なにそれ、アンタほんとキザだね。ガラじゃないって」

 そう言って和華乃さんは笑う。

「でも、まぁ……そうだね。…………えええいっ!!」

 和華乃さんは少し助走をつけ、手すりから大きく身を乗り出しグラスを天に突き上げた。赤紫の滴が、花が咲いたように空に舞い、きらきらと茜色の光を拡散させた。