「えっと……もしかして和華乃(わかの)さん」
「あはっ! やっぱり駿吾(しゅんご)だー!」

 "勝沼ぶどう郷"という聞き慣れない駅名が気になり、衝動的にホームへ降りた。そこで僕は彼女と、(ひいらぎ)和華乃(わかの)と再会した。僕が"いい人"を辞めたその日の出来事だった。
 ”いい人”というのは要するに”都合のいい人”だ。同僚や上司から日々押し付けられる、どうでもいい作業の山。それに嫌気が差した僕は、その日とうとう新宿とは逆方向の電車に乗ってしまった。そして山梨の初めて名前を聞くホームにいる。

「後ろ姿見て、あれーって思ったんだよね。やっばぁ! すごい偶然じゃん!」

 和華乃さんはテンション高くはしゃいでいる。

 降りたはいいが、ここで何するかも決めてない。いやそもそもここが何処かもよくわかってない。それで途方に暮れていた所を突然、背後から声をかけられたのだ。
 慌てて振り返ると、和華乃さんはマスクを取って僕に素顔を見せた。5年前に僕が惹かれていた、あの人懐っこい笑顔はそのままだった。

「で、どしたのこんな所で?」
「え? えっと……」

 僕が言葉に詰まると、彼女は手のひらを見せて制止してきた。

「まって! みなまで言わなくてよい!何となくそーぞーつくから!」

 想像つく……か。まあ、そりゃそうだよな。
 平日の午前中。それなりに名前が知られた企業に就職したはずの後輩が、のどかな景色とのどかな駅名のホームに立っている。スーツ姿でビジネスバッグという出立ちで……。
 そういう所の察しが良いのは相変わらずだった。

「そういう先輩は……」

 一方察しの悪い僕は、そこまで言いかけたところで、言葉を飲み込んだ。
 喪服姿の女性だって、山の中のホームでは、スーツのサラリーマンと同じくらい異質だった。仕事や観光でここにきているわけではないのは確かだ。

「ええっと……」

 そうなると、何を話せば良いのかわからない。口をもごつかせていると、和華乃さんはくすりと笑う。

「よし! じゃあ行こうか!」
「行く? ……って何処にですか?」
「せっかく降りたんだしさ、デートしようよ! アタシ、ワイン飲みたい!」
「ワイン……」

 山梨の名産品といえばブドウと、それから作られるワインだ。それにこの駅名……僕が知らないだけでワイナリーでもあるのかもしれない。

「さあさあ、せっかく来たんだし、楽しんでこ?」

 そう言って和華乃さんは、腕を絡ませてきた。

 相変わらずだ。こういうさりげないスキンシップが上手い……。僕はこれに騙されて、この5年間苦難の道を歩んできたのだ。

 この無自覚悪女め……心のなかで毒づいた。