その夜から一月ほどが過ぎた日のことである。慶子のもとに帝の使いが来た。閨への誘いと喜ぶ慶子に下されたのは離縁であった。

「いったい、私がどんな粗相を!」

 金切り声を挙げる慶子に告げられたのは、「中宮への度重なる非礼である」という言葉だった。

 中宮など初耳の慶子は使いの者に食い下がった。

「中宮様など、この後宮にはまだおられなかったはずです! 帝の思い違いかと!」
「いえ、中宮様はあなたとともにすでに入内されていたのです」

 そう述べた従者は頭巾を目深に被る咲子のもとにかしずいた。

「右大臣のご息女、咲子(しょうし)様。帝がお待ちでございます」

 それを聞いた慶子は大声を張り上げた。

「咲が右大臣の娘ですって! なにかの間違いです! これは私の叔母の子! 右大臣家とは血のつながりなどありますまい! そんな娘が中宮になど、なれるはずがない!」
「慶子殿、あなたは知っておられたのだ。かの姫が自分の従妹であることを」

 姿を見せたのは帝その人であった。

「血のつながりのある姫をあなたは下女として扱った。姫の存在をこの世から消して――私はずっと探していた。私の皇后を――」

 帝は咲子の手を取った。その声を聞き、咲子は震え上がるほど驚いていた。身分ある人だろうとは思っていた。だが、まさか、帝その人だったとは――

「我が君、迎えに参りました」
「そんな、恐れ多い……慶子様がおっしゃっていることは本当です。私が右大臣様の娘であるはずがありません」
「いいえ、今朝がた正式に養女となられたのです。私の中宮となるあなたです。右大臣も諸手を挙げて縁を結んでくれましたよ」
「そんな……そんなことが……」

 咲子は両の手で顔を覆って泣き出してしまった。

「泣かないでください我が君、さぁ、身なりを整えないといけません。あなたの髪に合いそうな(かもじ)も用意できています。あなたの美しい髪には遠く及びませんが、もとのように伸びるまで少しの間我慢してください。あなたを、弘徽殿に迎え入れたい。どうか、頷いてください」

 帝に促されるまま、咲子はこくんと頷いた。

「こんな幸せなことが、あっても良いのでしょうか」
「あって良いのです。これは、私が心から望んだことなのだから」

 帝に連れられて梨壺を出ていく咲子を、慶子は絶望の眼差しで見つめるばかりだった。
 実家に帰らされた慶子であったが、慶子の父は失脚し、その職を失っていた。没落貴族となった八重殿一家は屋敷を追われ、その行方を知る者はいないという。

 帝の手によって弘徽殿に足を踏み入れた咲子は、目の前に広がる景色に目を疑うばかりだった。
 美しい着物や装飾品に、侍る多くの女官たち。

「さぁ、私の中宮、咲子を着飾ってくれ」

 帝に指示されるとすぐに女官たちは咲子を着飾り始める。

「咲子様、まずは体を綺麗にいたしましょう。髪を洗って、長さも整えて、美しい髢もありますから」

 体を拭き、髪をすき、切りそろえると、あっというまに咲子の美しさが際立った。

「肌理の細かい美しいお肌ですこと。真っ白いお肌には何色の着物でもに合いそうですね、咲子様、何色になさいますか」
「えぇと、そうですね……その薄紫色の着物が気になります」
「帝もこれが似合うだろうとおっしゃっていましたよ。あぁ、焚くのは何の香りがいいでしょうか」

 楽しそうに着飾る女官たちの手によって、咲子はあっという間に美しい姫君になった。

「本当にお美しいですわ、咲子様」
「みなさん、ありがとうございます」

 深々と頭を下げる咲子に、女官たちは優しく微笑んだ。

「咲子様、堂々となさいませ、私どもに頭など下げなくとも良いのです。私どもは、咲子様のお側仕えに選ばれてとても光栄に思っているのですよ」
「いいえいいえ、お礼はきちんとしたいのです。どんな間柄であっても、それが当たり前だとは思いたくありません」

 慌てた様子で答える咲子に、女官たちは優しい笑みを向けるのであった。

 美しく着飾った咲子を前に帝は目を細めた。

「本当にあなたは美しい人だ、まるで天女です。あぁ、天女というのはいけない、私のもとからいなくなられては困る」

 帝は咲子の手を取ると、歩き始める。

「あなたに見せたいものがある」

 そう言うと、帝は咲子を宴の松原へと連れ出した。その先に、写る景色を見て咲子は目に涙を浮かべた。視線の先には、美しく咲き誇る桐の花があった。

「桐壺にも生えていますが、あなたの再会を感謝して植えたのです。ここから、二人で見守りたい」
「はい」

 そのまま桐のもとへと寄り添って歩みを進める。花の咲き誇る木の下で立ち止まると、帝は一輪の花を手に取った。咲子の手を取り、その手のひらにのせる。薄紫の美しい花である。

「その衣も良く似合っていますね、桐の花と同じ、薄紫色――あなたに似合うと思いました」
「すべてが夢のようです」
「夢ではありません。ですが、私の方も夢を見ているようだ――どれほど、あなたを探したことか……」 

 咲子は帝の胸に手を当てた。十二年前のあの日のように――

「温かい」

 互いに身を寄せ合う二人は、まるで連理の枝のようである。
 視線の先で、風に吹かれた桐の花がそよそよと揺れていた。