優弦は念のためだと言ったけれど、何度も傷口の血を吸い出していた。薬を塗っただけでなく、その後しばらく飲むようにと煎じ薬を置いていった。
 熱が出た時もまるでわかっていたように落ち着いていて『熱が下がったらもう安心だ』と微笑んだ。

 彼はきっと毒に気づいていたに違いない。
(私が怖がらないように言わなかったのね)

「あなたは優弦に騙されているのですよ。あの男は偽善に満ちている。本心では東宮の座を狙っているくせに、あたかも興味がないふりをする」

 まるで歌でも歌うように冬野中納言は語った。

「騙されちゃいけないよ、小雀」

 冬野中納言は小雀に手を伸ばした。

「近寄らないで!」

 小雀は敵意を隠そうともせず払いのける。

「残念ね。あなたは月冴の君の足元にも及ばないわ。あなたは恥ずかしい人よ」
「ん?」

「聞こえなかったのかしら? あなたは痴れ者だと言ったのよ?」

 どうなっても構わない。いっそ鴨河原にでも捨ててくれればいいと小雀は思った。

 それなのに、冬野中納言はくすくすと笑う。

「かわいいねぇ。この状況でも元気いっぱいで、気が強いところもいい。優弦がお前にこだわるのもわかる気がするよ」

「は? あなたおかしいんじゃないの? 月冴の君は私のことなんて何とも思っていないわ」

「優弦のどこがいいんだ。悲田院だの施薬院だの、そんなものに力を入れてどうする? 国中の貧しい者が大挙して押しかけるのが関の山だ。馬鹿者め」

 貧しい者はみな怠け者といわんばかりだ。

 施す施設ではない。仕事を教え、生きる術を教えるための施設の意味が、何故わからないのだろう。

「あの者たちは私たち貴族とは違うんだ。知恵もない」

「あなたって寂しい人ね」

 貴族の身分を取ったら何も残らない人。

「左大臣の犬になって結局捨てられるのよ。あの狸親父は自分のことしか考えていない。弘徽殿の女御だって駒に過ぎないわ」

「左大臣など信用しておらぬ。私はね小雀、敦茂親王になんとしても帝になってほしいんだ。それだけだよ」

 にやりと口元を歪めた冬野中納言は、じりじりと間合いを積めてくる。

 小雀は拳を握った。
 この前の夜は不覚をとってしまったけれど、今日は負けない。

 こんな時のために袖の中に器を隠してあるのだ。

 覆い被さってくる中納言に、思い切り袖を顔面に叩きつけ、ゴンと鈍い音を立てたところで、一気に股間を蹴り上げた。
 佐助に教わった護身術だ。

「うっ」
 冬野中納言はうずくまり、小雀はにんまりと笑う。

(なめてもらっちゃ困るのよ。私は夜盗紅鬼子の花鬼なんだから)

「どうして親王に固執するのよ? いくら姉君が乳母だからって、あなたには関係ないじゃない! 幼い東宮に毒を盛るなんて人じゃないわ! あなたは鬼よ!」


「へえ、親王は実はあんたの息子ってわけかい」
 ふいに響いた声と共に、冬野中納言の首筋に向けて刀が伸びた。

「お母さま!」

 鮮やかな杜若(かきつばた)の小袿を着た小雀の母が、刀の刃をきらりと反転させて冬野中納言の喉に当てる。

 驚愕に目を見開いた中納言は全く動けない。

 バシッと音を立てて扉が外された。
 現れたのは、佐助をはじめ橘家の男たちと――。

「小雀、おいで」
「月冴の君」

 涼し気な水文柄の薄い青の袍を着た彼は、清らかな風と共に手を差し伸べる。

「うちの大事な娘を誘拐しようなんて、ただでは済まないからね」
 小雀が優弦の胸に飛び込むと同時に、冬野中納言は佐助たちに羽交い絞めにされた。

 どこからか人相の悪い男たちが襲いかかってくる。

 小雀を後ろに回した優弦は、刀を手に取る。

「小雀おいでと」母に手を引かれ後ろに下がった。

 優弦は強かった。

 舞を舞うように袖を翻しながら、ひとりふたりと倒していく。鞘はつけたままなので血が飛ぶこともない。

「たいしたもんだねぇ、お前の恋人は」と母が笑う。

 三人、五人と倒れていく男を数えるうち、ばたばたと音を立てながら集まって来たのは検非違使だった。


≪ 永遠 ≫


 事件からしばらく、後宮は落ち着かない日々が続いた。

 麗景殿の床下から呪詛の札が見つかった。呪詛は癖のある左大臣の字で書かれていた。本人が書かなければ呪いは叶わない故に、そのまま動かぬ証拠となったのである。
 東宮に毒を盛った罪と冬野中納言が捕らえられ、左大臣が呪詛の罪で、薄野ともうひとり弘徽殿の女房も捕えられた。

 それでもやはり薄野は毒とは知らなかったらしい。
 粉薬を渡されて、冬野中納言は自分のお茶に入れて飲んでみせたという。薄野もひと口飲んでみたけれど何も起きなかった。だから安心して東宮の汁物に混ぜた。本人も気づかないうちに利用されていたのだ。
 小雀がどうなったか心配で泣いていたところを笹掌侍に声をかけられたらしい。

 冬野中納言にいいように使われたのは薄野だけではなかった。
 女官にも何人かいて、彼女たちは宿下がりの時に冬野中納言の邸に行っていた。いつかこの邸で正妻になどと言われて、自分だけが特別だと信じていたとか。


 弘徽殿はひっそりと静まり返り、なんとなく暗い空気が漂う中、小雀は宮中に戻った。

「左大臣は大宰府に流罪だそうよ。冬野中納言も流罪ですって。まあ流罪で済んで感謝すべきよね」
 と、笹掌侍が溜め息をつく。

「それにしても冬野中納言に恐ろしい裏の顔があったなんてねぇ。まさかそこまでとは思わなかったわ」
 女を騙すわ、偽物を売りつけるなど、彼がこれまでにしてきた悪事の数々が、今回合わせて明るみになったのである。

「それで、弘徽殿の女御さまは?」
「出家なさるそうよ。帝はそれには及ばぬと言ったそうだけれど、どうしてもと言われて。親王は臣籍降下に決まったって。収まるべくところに落ち着いたってことね」

 親王の本当の父については公になっていない。確かめようもなく、口にできる話でもないので、有耶無耶に消えてしまうだろう。

「とにかく小雀が無事で良かったわ」
「うん。ありがとう」

「そうそう聞いたわよ」と笹掌侍が手を叩いた。
「月冴の君が助けに来てくれたそうね!」
「うん」

「聞かせて、どんなだったの?」

「ふふ。すっごく素敵だったわよ。『小雀、おいで』って袖を翻したの。こんなふうにね」

 小雀は袖を振ってみせた。

「閉じ込められていたのは埃だらけのあばら屋だったんだけど、彼が現れた瞬間、丁子の香りをのせた清らかな風が吹いたわ。ばったばったと男たちを倒して」

「きゃあ、素敵っ!」

 そう、彼は本当に素敵だった。

 ただし、今度ばかりは本気で叱られたけれど。

『どうして私に言わずにひとりで行ったんですか?』
 両手で顔を包まれて、くどくどと説教をされた。

 母にも佐助にも、無鉄砲ぶりをなんとかしないと命がいくつあっても足りないと怒られた。

「でも小雀、だめよ? ひとりで行っちゃ。今度は私も誘ってね」
「え?」

「ふたりならきっと逃げられたと思うわ」

 さすが親友と小雀は笑った。
 頭中将が聞いたらさぞかし肝を冷やすだろう。




 その夜、小雀の局に彼が訪れた。

「薄野はどうなるのですか?」
「彼女たちは悲田院で働いてもらうことになりました。俸禄も出ますし、大変だとは思いますが罪は罪ですからね」

「そうですか。彼女には年老いた母君がいるから心配していたんですけれど、よかった」

 優弦がため息をつく。
「あなたは人の心配の前に、自分の心配をするように」

「はーい」
 膨らませた頬を優弦が弾く。

「あなたの母君とも相談したのですが、結婚しましょうか」

「え? 誰とですか?」

「あなたと私が、ですよ?」

「ええ! そんなの無理ですよ」

「なぜです? 董子は私が嫌いなのですか?」

 ――董子?
 家族しか知らない、小雀の本当の名前。

「だって……。あ、それなら私、末席の妻でいいですからね」

「あはは。私はあなた以外に妻を持つ気はありませんよ」

「そんな。でも月冴の君は」

「優弦だよ。私の名前は」

 言ってごらんと促されて「優弦さま」と言ってみたけれど、なんだか恥ずかしい。

「董子」

 小雀は抱き寄せらた。

「あの……。でも私、夜盗ですよ?」

「私も闇烏ですからね」

 くすっと笑う小雀の顎をすくい、優弦が唇を重ねる。

 あばら屋でもうだめだと思った時、恋を知っただけで十分だと思った。いっそ恋を失う前で良かったじゃないのとさえ。

 心から好きだったから。

 失うのが怖くて怖くて……。あばら屋に閉じ込められるよりも怖くて。

 でも今、小雀を抱く彼の手は力強い。

 不安を消し去るほどに。


「ふたりで幸せになりましょう」

 優弦さま……。

 瞼を閉じた小雀の瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちた。




 その年の夏の、月が美しい夜。羅生門の上にふたつの影が浮かんだ。

「見て、きれい」
 小雀が指をさす先に、無数の光が揺らめいている。

「ああ、蛍だね。あそこは湧き水できれいだから」

 黒装束の優弦と小雀はすっと立ち上がった。

「さあ、見に行こう」
 優弦が手を差し出した。

 目元だけを出した小雀はにっこりと微笑み、ふたつの影は闇に消える。



 君恋ふる蛍の夜
  淡き夢を永久にふたりで




-了-

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