「闇夜なら自由だからですよ。闇は私を隠してくれる。それだけです。義賊になる志もない。何の信念もない。私は少しも真面目なんかじゃない」

「そんなことありません」

 一体どうしたというのだろう。
 雲隠れの月のように、彼が闇に消えてしまいそうで小雀は怖くなった。

「いや、そうなんだ。権力が偏らないよう大納言という地位につき、さも立派そうにしているけれど、私は」「だめです」
 その先を言わせたらいけないような気がして、小雀は彼の声を遮った。

「だめ。そんなのだめ」
 怖くて辛くて、涙が溢れてくる。

「――小雀?」

「闇が好きだなんて、嫌です。鬼に連れていかれちゃう」

(そんなのはいや。あなたは大切な人なのに。京にとっても、私にとっても。いなくなってはいけないの)


「実はね、私は以前から君を知っていたんですよ」
 優弦は小雀の髪を撫でながら懐かしそうに言う。

「花鬼になったばかりの頃のあなたは、盗みには入れなくて、民に薬草や食料を配る役をしていたね」

 その通り、小雀は手下に連れられて配る役をしていた。

「覚えているかな。月明かりで草鞋を編んでいる子供たちがいた夜」

 小雀は頷いた。
「はい。こんなに小さいのに遅くまで働いてかわいそうにと思って見ていると、子供のひとりが言ったんです。『母さん喜んでくれるかな』って」

「私もあの時すぐ近くで見ていたんだよ」
「そうだったんですか」

「あなたはその後ぽろぽろと泣いていましたね。かわいそうだって思った自分が恥ずかしいって」

 貧しくても、子供たちは幸せそうに微笑んでいた。
 あの時小雀は、草鞋を編む子供たちに教えてもらったのだ。不幸かどうかは本人しかわからないということを。

 ある時、美しい着物に身を包んだまま息絶えた貴族の女性を見た。通う男もなく、生きる術を知らず、何もできないまま悲しみにくれて息を引き取る姫は少なくない。

 小雀の祖母もそうだった。

 家柄は良かったのに祖母の父が病気で亡くなった時から逆風が吹き、苦労が続いたらしい。小雀の母を抱え、夫にも使用人にも見捨てられ、そんな中、助けてくれたのは夜盗だったらしい。

 夜盗は母のことも実の娘のように可愛がってくれたという。彼は優しい義賊だった。

 祖母が亡くなって母が女官となって独り立ちするまで、ずっと見守ってくれたらしい。
 母は父のように慕っていたその夜盗の意思を継いで夜盗になったのだ。

「それからも時々あなたを見かけた。あれから二年くらい経ちました。本気でなんとかしなきゃって思いましてね」

 優弦は遠くを見るようにして微笑む。

「それから真剣に悲田院や施薬院で何が必要か、私はあなたを見ながら心を決めたんですよ」

 小雀の額に彼の唇が触れた。
「あなたはかわいい人だ。私はずっとそう言っているのに、少しも本気にしてくれない」

 思えばずっと彼は小雀に愛を囁いていた。
 信じなかっただけだ。

「月冴の君……」

「私はね、あなたが愛おしくて仕方がない」

 そっと重ねた唇は、甘くて柔らかくて。痺れるような口づけだった。


 あくる朝。
 届け物があり、清涼殿に向かうと冬野中納言が歩いてくるのが見えた。

 思わず緊張し、怪我をしていない左手に扇を持ち替えた。右手は袖の中に隠す。あの夜手を切られたことを冬野中納言が知っているかどうかはわからないが、用心に越したことはない。

「もしやあなたは麗景殿の小雀ですか?」

「あ、はい……」

「ずっとお会いしてみたかったのですよ」

 心臓がどきりとした。

「なにしろあなたは人気者ですからね。あ、そういえば手を怪我されたそうですね、大丈夫ですか?」

 ――え?

「あ、あはは。私あわてんぼうなもので、お恥ずかしい限りです」

 他愛もない話をして別れたあと、小雀は冬野中納言を振り返りたい衝動を抑えた。

 手の傷を知っているのはふたりしかいない。

 麗景殿の女房、薄野と笹掌侍だ。


≪ 神隠 ≫


「これは小雀の十二単だわ」

 笹掌侍は慌てて弘徽殿に人を遣わした。
「小雀を呼んできて」

 十二単は着るのは大変だけれど、脱ぐのは簡単だ。いわゆる、もぬけの殻である。

 小雀が着ていたはずの十二単が、そっくり捨て置かれていたのである。

 場所は雷鳴の壺と呼ばれる北西の最奥にある殿舎。
「どうしてこんなところに?」

 小雀を呼びに行ったものの、嫌な予感がする笹掌侍は校書殿へと向かった。もしかしたら優弦がいるかもしれないと思ったからだ。

 校書殿に優弦はいなかったけれど、頭中将がいた。

「おや、笹掌侍。どうなさいました?」
「小雀が、小雀が。お願い助けて!」

「何があったのですか?」

 頭中将に事情を説明し、直ちに優弦に知らせてほしいと頼んだあと、笹掌侍は麗景殿に行った。

 案の定小雀の姿はなく女房たちが心配していた。

「月冴の君に伝えてくれるよう頭中将にお願いしてきました」
「そうですか。ありがとう笹掌侍」

 小雀の局に行こうと振り返った笹掌侍は、ふと足を止めた。

 ひとりの女房がとっさに目をそらしたのだ。

 よく見れば肩が震えている。

「ちょっといいかしら、あなたはえっと、薄野よね?」



 ***



「はぁ」

 小雀は塗籠の中でため息をついた。

 見えるのは格子戸の先の青い空。

 ここは一体どこなのか。
 壁の汚さからいって冬野中納言の邸ではなさそうだ。

 窓は高く、なんとしても手が届かない。

 唯一の扉は、中から開けられない仕組みになっていて、下の小窓は食器しか通れないほど小さい。
 夜盗として情けないけれど、どうにもならない。

 耳が不自由らしい雑仕女が扉の小窓から食事を出してくれたりするだけで、人の出入りはない。冬野中納言も姿を見せなかった。

「皆、心配しているかな」

 空のように爽やかな優弦を思い浮かべ、どうか気にしないでほしいと願わずにはいられなかった。
 おとといの夜、小雀は闇に紛れ潜んでいた。

 場所は後宮。北の殿舎は人けが無い。夜ともなれば尚更で、いるとすれば人目を忍んだ恋人同士か、ひとりを満喫したい宿直番くらいだ。

 小雀の耳に届いた声。

「お薬だと言いましたよね?」
「もちろんそうだよ。私が嘘をつくはずがないじゃないか」

 先に聞こえたのは麗景殿の女房、薄野の声だ。

 冬野中納言の邸に忍び込んだあの夜、女の寝顔に見覚えがあるような気がした。
 あれは薄野だったのだ。

 小雀の手に傷があるのを知っているのはふたり。笹掌侍と薄野。

 薄野は小雀と同じ日に宿下がりをしていた。小雀が盗みに入った夜に冬野中納言の邸にいても不思議はないし、小雀より先に宮中に戻ったのだから、東宮の食事に毒を入れるのも可能だ。
 となれば疑う余地はなかった。

 優弦が来なかったのもちょうど良かった。皆が寝静まったころに局を出て行った薄野の後を付けたのである。

 薄野は小雀によくしてくれてた。後宮での生活に慣れない小雀に、あれこれ教えてくれたのも彼女だ。

『わからないことはなんでも聞いてね』
 彼女は優しかった。そんな彼女がなぜと思うけれど、話の内容から察するに、薬だと言われて東宮の食事に入れたのだろう。


 あの時、見つかってしまった理由は、猫が鳴いたから。

 可愛がっていた“鈴のおとど”が小雀を見つけ、にゃあと鳴きながらごろごろと甘えてきたのである。猫の首輪についていた鈴の音は、不必要なまでに響いた。

 冬野中納言に見つかり、咄嗟に十二単を脱ぎ捨てて逃げようとしたけれど、長い袴が邪魔をした。
 揉み合ううちみぞおちを殴られて気を失い、あとのことは覚えていない。

 あの場にいた薄野はどうしただろう。同じように連れ攫われたのか。

(お母さま)
 五条の邸にも行方知らずだと連絡がいっただろうか。

 覚悟のうえで薄野のあとを付けたから後悔はしていないけれど、心配かけてしまうのは申し訳ない。

 そして――。
(ごめんなさい)
 再び優弦を思い浮かべ、小雀は小さく微笑んだ。

 今度こそ彼は呆れているだろう。
 このまま死んでしまっても、自業自得だと思われるかもしれない。

 それでもいいと小雀は思った。
 むしろそのほうがいい。小雀が死んだとしても、彼はきっとその死を無駄にはしないはずだ。原因を突き止めて、冬野中納言を追及してくれるだろう。

 そうすれば、少しでも京は浄化される。

(私ができるのはそれくらいだもの)

 優弦はなくてはならない人だ。
 本人はそれがわかっていないようだけれど、と思い、小雀はくすっと笑う。

 冥途の土産に、彼の恋人だった想い出ができてよかった。

(――幸せな恋をしたんだもの)


 扉が開く音に小雀は振り返った。

「食が進まないようですね」
 不敵な笑みを浮かべるのは冬野中納言。

「なかなか手に入らないのですよ? 鮑も()も貴重なのに」

 小雀は何も答えない。

「その手の怪我はどうしたんだい? 実は最近うちに夜盗が入ってね、その時に手を切っているはずなんだよ。しかも女だと言うじゃないか」

 やはり報告は聞いていたらしい。
 男には傷を負わせたが命に別状はないはずだと佐助から聞いている。ほっとした半面、手を切ったことやひとりは女だったことがわかってしまう懸念があった。

 口を結んだまま何も言わない小雀を見て冬野中納言はくすっと笑う。

「まあいいでしょう。証拠はどうせ処分しているでしょうからね。それに刀には強い毒が塗ってあったはずなんだ。そんなふうに無事でいられるはずがない」

 小雀は背筋がひやりとした。

 ――毒?

 優弦は念のためだと言ったけれど、何度も傷口の血を吸い出していた。薬を塗っただけでなく、その後しばらく飲むようにと煎じ薬を置いていった。
 熱が出た時もまるでわかっていたように落ち着いていて『熱が下がったらもう安心だ』と微笑んだ。

 彼はきっと毒に気づいていたに違いない。
(私が怖がらないように言わなかったのね)

「あなたは優弦に騙されているのですよ。あの男は偽善に満ちている。本心では東宮の座を狙っているくせに、あたかも興味がないふりをする」

 まるで歌でも歌うように冬野中納言は語った。

「騙されちゃいけないよ、小雀」

 冬野中納言は小雀に手を伸ばした。

「近寄らないで!」

 小雀は敵意を隠そうともせず払いのける。

「残念ね。あなたは月冴の君の足元にも及ばないわ。あなたは恥ずかしい人よ」
「ん?」

「聞こえなかったのかしら? あなたは痴れ者だと言ったのよ?」

 どうなっても構わない。いっそ鴨河原にでも捨ててくれればいいと小雀は思った。

 それなのに、冬野中納言はくすくすと笑う。

「かわいいねぇ。この状況でも元気いっぱいで、気が強いところもいい。優弦がお前にこだわるのもわかる気がするよ」

「は? あなたおかしいんじゃないの? 月冴の君は私のことなんて何とも思っていないわ」