笑いながら口を塞がれて、やめてとは言えなかった。
 脳裏にちらつく“恋”のひと文字。

「はぁ……」
 泡と消える恋なのに。

 彼の用事が済めば、恋人のふりをすることもなくなるのに。



 その夜。優弦は現れなかった。

 彼は戌の刻を告げる弦の音のあとに来る。
 けれども、来るとは限らない。

 今夜は来ないのかと思いながらそっと妻戸を開けると、彼はいた。
 ちょうど鞍馬の宿坊で初めて会った夜のように、簀子に腰を下ろし片膝を立て柱に半身を預けるようにして、彼は月を見ている。 

 身に着けているのは宿直装束の衣冠。袍は闇に溶け、横顔が青白く輝いていた。

 その様子がいつになく沈んでいるように感じたのは気のせいではないと思う。

 気配に気づいたのか、振り返った彼は、にっこりと微笑む。

「どうかなさいました?」

 再び月を見上げた彼は「母とは尊いものですね」と言う。

「麗景殿の女御さまが、ようやく眠れるようになったそうですね」

「ええ。そのようです」
 心配で寝付けなかった晃子さまも、東宮の体調は順調に回復しているので知少しほっとしたのだろう。

「小雀は私を真面目な方だと言ったよね」
「ええ」

「あなたの方がよほど真面目ですよ」と、彼は小さく笑う。

「私がどうして、夜の京を歩いているかわかりますか?」
 小雀は不安になりながら左右に首を振った。