その日の午後、優弦は校書殿(きょうしょでん)で冊子を広げていた。
 ふいに手元が明るくなり顔を上げると、高灯台に明かりを灯した内舎人がにっこりと微笑む。

「遅くまでお疲れさまです」

 時を忘れて集中していたらしい。もうそんな時間かと、凝り固まった首を回して冊子を棚に戻した。
 外に出ると、楽しそうな笑い声が耳に届く。宿直番が談笑しているようだ。
 彼は寄っていくことにした。


「楽しそうですね」と優絃が声をかければ、振り返った中には冬野中納言の顔もあった。
 小雀は天敵のように嫌っているが、すらりとしたいい男ぶりなので女性には人気がある。昨日の花の宴での舞も鮮やかで女性たちを虜にしていた。

 月に愛された月冴の君、太陽に愛された頭中将、妖魔に愛された冬野中納言と言われる。
 妖魔に愛されたとは随分不穏な言葉だが、一時彼は元恋人の生霊に悩まされたことがあった。その時のやつれた様子が女心をくすぐったとか。

『どうせその恋人を騙して財産盗んだに違いないわ! 妖魔はお前だっていうの』
 いつだったか小雀がかんかんに怒っていたのを思い出し、優絃は扇の裏に笑いを隠す。

「おや優弦どの。どうぞどうぞ。笹掌侍の髢事件の話をしていたんですよ」
 公達の間でもすっかり評判になっているようだ。

「そういえば、そもそもなぜそんなことになったのでしょうね」と誰かが聞けば、苦笑いを浮かべた頭中将(とうのちゅうじょう)が額に手を当てた。

「面目ない。昨日、宴のあとに笹掌侍に恋文を渡しましてね、それが夕凪(ゆうなぎ)にばれてしまいまして」
 夕凪とは弘徽殿の女房で頭中将の元恋人である。彼のほうはすっかり冷めてしまったが、彼女のほうは未練があるらしい。よくある話だ。

「それで喧嘩になったらしく、もみ合ううちに取れてしまったらしいのです」
「なるほど。頭中将も罪なお人ですなぁ」
 あの豊かな髪が髢だったとは興ざめだという男もいたけれど、頭中将は可愛いではないかと笑う。太っ腹の男だ。

「しかし『髢の何が悪いの? 皆さんお世話になるでしょう!』はよかったですね」
「ああ、小雀でしたっけ。最近入った麗景殿の女房ですよね」

 そこから小雀の話題になった。
 五条の花橘の姫ですよと誰かが言えば、あそこは女所帯のはずが屈強な門番がいたりして誰も恋文の返事をもらったことがないという。
 奥ゆかしい姫もいいが、あのように元気な姫も魅力的だと誰かが言った。

「にこにこと愛くるしい姫ですよね」と言った頭中将の言葉に、冬野中納言が「ほぉ」と興味深げに話に分け入って来た。
 彼の姉は、弘徽殿の女御が産んだ敦茂親王の乳母である。左大臣家と縁が深い。

 後宮にはふたつの派閥がある。左大臣派の弘徽殿と、右大臣派の麗景殿。

 左大臣派の彼は、小雀を知らないようだった。
 優弦がちらりと彼を見て、口を開く。
「そういえば冬野中納言、夜盗に入られたとか」

「ええ。家を空けていた隙にやられました。検非違使にきつく言ってきたところです。全く彼らが甘いから夜盗もいい気になってるんですよ」
「夜盗は、何を持っていたのですか?」

「砂金とか、他にも作り立ての衣や調度品やら色々ですよ。下人共は暴力を振るわれましてね、邸の中はめちゃくちゃ。忌々しい」
「なんと、それはそれは」
 一同が怯えた声を上げる中、事情を知る優絃は密かにため息をつく。
(小雀の耳に入らないといいが)



 夜の後宮は密やかにさざめいている。
 男子禁制というわけではないので、女房や女官が自室としている局に、恋人や親しい公達が忍んでくるのだ。

 麗景殿の女房、薄野(すすきの)の局にも恋人が来た。
 恋人は今宵、宿直番だったらしい。世間話ついでに冬野中納言の邸に押し入ったという夜盗の話をしたようだ。
 朝を迎えた薄野は、早速女房たちに夜盗の話を披露した。

「砂金の他にも作り立ての衣や調度品やら、大層な量を持っていかれたそうよ」
「まぁ、冬野中納言ったらお気の毒に」

 彼は敵対勢力とはいえ、それはそれ。麗景殿の女房たちも同情しきりである。

「紅鬼子とかいう夜盗らしいわ。赤鬼のごとき恐ろしい顔をしているんですって、家の中はめちゃくちゃで、けが人もいるそうよ、恐ろしい」

 それを聞いた小雀が、心密かに怒りの炎を燃やしていたのは言うまでもない。
(持ち出したのは砂金と唐三彩だけじゃないの! 誰にも暴力は振るっていないわ! 邸はどこもあらしていない!)

 ぷるぷると震える手を袖の中に隠し、許すまじ冬野中納言と心に誓っていた。


≪ 弘徽殿 ≫

 いつものようにお使いを頼まれて、小雀は貞観殿にいた。

「頭中将に頂いたの」

 笹掌侍が差し出した竹籠の中に粉熟(ふずく)が入っている。胡麻の風味ととろけるような甘味を思い浮かべ、思わずごくりと喉が鳴る。

「一緒に頂きましょう」と、笹掌侍の局に行った。

 髢事件以来、ふたりは気の置けない友人である。
 事件直後こそ元気がなかった笹掌侍だけれど、小雀が感心するほど早い立ち直りを見せた。お互いさっぱりとした性格なので気が合うのだろう。

「頭中将、相変わらず熱心なのね」
 小雀がくすっと笑うと、笹掌侍は照れたように扇で口元を隠す。

「頭中将は、髢だってわかっても気にしないって。そんなの信じられる?」
「私は信じるわ。頭中将は男らしくて素敵な人だもの」
 親友の太鼓判に笹掌侍はうれしそうに微笑んだ。

「小雀は? 好きな人はいないの?」
「うん。いないわ」

「まあ。誰とも恋文を交わしたことはないの?」

 いくら親友とはいえ、だって私は夜盗だからとは言えない。
「そうなの。いつかは恋をしたいと思っているんだけどね」

 恋話に花を咲かせるうち、笹掌侍は「そういえば」と声をひそめた。

「ねえ小雀、冬野中納言ってどう思う?」

 思わず顔をしかめそうになった。
「どうって?」

「目の奥が笑っていないのよね、あの人。妖魔に愛された君って言われているけれど、その通りだと思うわけ。信用ならないっていうか……」

 彼の裏の顔を知っている小雀はもちろん大嫌いだけれど、ちょっと意外だと思った。何しろここ後宮で聞こえてくる彼の噂は、全て彼を褒め称える話なのだから。

「なにかあったの?」

「私ね、見てしまったのよ。迷い込んできた市井(しせい)の子供を、あの方は汚いものでも見るような目でちらりと見て、子供が手を伸ばすと払いのけて行ってしまったの」

「誰かを呼ぼうともしなかったの?」

 笹掌侍は渋い顔で頷いた。

 市井の子供なら粗末な身なりだっただろう。邪険に扱ったとしても上流貴族ならありえることだ。
 けれども冬野中納言は貧しい者へも分け隔てなく優しいというのを売りにしている。噂通りなら、子供に手を差し伸べたはずだ。
 笹掌侍の目に奇異に映ったのも無理はない。

「子供はきょろきょろ見渡して困っているし、どうしようかと思っていたら、今度は月冴の君が通りかかってね。月冴の君は子供に声を掛けて、衣が汚れるのも気にせず抱き上げて、楽しそうに話をしながら門へ歩いていかれたの」

 状況からすれば、優絃がとった行動のほうが珍しいともいえる。
 小雀に言わせれば当然の行動だけれど。

「月冴の君がお優しいのは予想通りとしても、差がありすぎだと思わない?」

 あの男めと小雀は唇を噛んだ。
 ふつふつと怒りが込み上げる。やはりあの男は許せない。

「それが本性なのよ。人が見ていれば違う行動をとったに違いないわ」
「うん。私もそう思った」

「冬野中納言といえば、左大臣だけどね」と笹掌侍は更に声を落とした。

 彼女は事情通だ。
 帝に近侍するという仕事柄、あらゆる部署から集まってくる情報を耳にする。宮中の噂はなんでも知っているかもしれない。

「敦茂親王を東宮にしようと必死らしいわよ」

「え? 東宮はいらっしゃるじゃないの」

 現東宮は五歳。母君は小雀がお仕えする麗景殿の女御だ。

 左大臣の娘である弘徽殿の女御と、右大臣を父に持つ麗景殿の女御はほぼ同時に皇子を授かった。

 帝は第一子の皇子を東宮にすると前もって宣言していたので、どちらが先に生まれるか、両家とも固唾を飲んで見守っていたらしい。

 麗景殿の女御が一日早く産気づいた。結果、一足早く生まれた麗景殿の女御の御子が東宮になり、左大臣の孫は親王になった。

 左大臣は悔しさのあまり寝込んだという。

「去年先の右大臣がご病気で亡くなったでしょう。それでまた復活ってことよ」

 今の右大臣は晃子さまの兄君だ。とはいえまだ若い。左大臣は甘くみているのだろう。

「化け狸め」
 でっぷりと太った左大臣の狸顔を思い出し、小雀は顔をしかめる。

「そもそも主上は、月冴の君を東宮になさりたかったのよ」と笹掌侍は言う。

「後ろ盾さえあればと思うけど、今のお立場のほうが月冴の君もお幸せだものね」

 小雀はどう答えていいのかわからなかった。
 月冴の君はよくわからない。いい人だとは思うけれど、闇烏の謎もあるし、小雀の前ではふざけてばかりいて、本心がどこにあるのか見えない。

 ああいう人は苦手だと、小雀は思う。

「晃子さまと月冴の君の噂。知っているでしょう?」

 頷く小雀の眉間の立て皺がますます深くなる。
 麗景殿ではもちろん否定しているけれど、じわじわと広がっているらしいのだ。

「いったい誰が噂を広げているのかしら。酷いわ」

「弘徽殿からなのは間違いないとしても、なんとなくそれにも冬野中納言が関わっている気がするのよ」

「え? どういうこと?」

 笹掌侍は何人かの女官をあげた。
「よく考えてみると、冬野中納言のいい噂は、彼女たちから広まっているのよね。月冴の君が結婚しない理由は何故かって意味ありげに言っているのを見かけたし、気になっているの」

「そうなの?」
「まだ確証はないわ。冬野中納言が彼女たちとどこで会ってどんな話をしているかわからないから」

 何やら難しい話になってきたと、小雀は神妙になる。

「月冴の君って妻がひとりもいらっしゃらないでしょう。それがこんな形で利用されるなんて酷い話よ」

「でも恋人はいらっしゃるのでしょう?」
「さあ、浮いたお話は聞かないわ。あの調子で軽口を叩いていらっしゃるけれど」

 何しろあれほどの美男子だ。
 ちらりと微笑みかけるだけで釣り放題だろうし、噂にならないだけであちこちに恋人がいてもおかしくはない。
 まあでも、彼は闇烏だ。恋人のところに通うよりも、夜の徘徊のほうが好きだったりしてと、小雀は密かに思った。
 だとすれば相当の変人だけれど。

「大変なのよ、月冴の君はとても」
「そう? 少しも大変そうには見えないわ」

「小雀ったら、もう。何もわかっていないわね」
 よく聞きなさいよと、笹掌侍は語気を強めた。

「左大臣は警戒して、あの方に監視をつけているのよ。左大臣というより、そうね、もしかしたら冬野中納言かもしれないわ……」
 笹掌侍は自分の言葉に納得するように頷く。

「監視?」

「多分、内通者がいるのよ。もちろん麗景殿にもいるはずよ」

 小雀は目を丸くした。
「――ええ?」

 笹掌侍は真面目な顔で頷く。

「月冴の君はわかっていらっしゃるわ。だからいつものらりくらりと追及の手を逃れている。と言っても、やましいことなんてないでしょうけどね」

 にわかに信じがたい話だ。