「そうしてくれると助かるな。気が気じゃないのでね」
でもわかってほしかった。
「――私たちを待っている人がいるんです」
薬さえあれば助かる子供を泣きながら見守る母。今日明日の食事にも困っている子供たち。脳裏に浮かぶ人々を思うと、居ても立っても居られなくなる。宮仕えで頂く俸禄は、今後も配るつもりでいるけれど、それだけじゃあ足りない。
ちらりと見上げた顔には、苦笑が浮かんでいた。
「きりがないとは思わないのですか?」
「思いますよ、そりゃ。配れる量なんてたかが知れていますし。でもね、どんなに細やかでも、その人にとって希望になれるかもしれないでしょう?」
「希望?」
「明日への希望ですよ。自分を気にかけてくれる知らない誰かがいる。それだけで、私だったらうれしいです。もうちょっとがんばってみようかなって思えるくらいは」
だって紅鬼子はそうしてもらったうれしさから生まれたんだもの。
「心配せずともよいですよ。夜盗取り締まりと同時に、悲田院や施薬院の強化を朝議にかけますから」
悲田院は貧しい人や孤児を救うために、施薬院は怪我や病気で苦しむ人を救うための施設だ。
「でもあそこは……」
荒れ放題で体をなしてはいない。
「確かに今は捨て置かれています。だが、なんとかする。そのための準備を進めてきましたのでね」
「そうなのですか?」
優絃は笑みを浮かべながら、力強く頷いた。
「信じて、あとのことは任せなさい」
彼は齢二十二にして大納言の地位にある。朝議にも参列する立場にいるので言い切るからには本当に何かするのだろう。
悲田院や施薬院が庶民を救ってくれるなら、それに越したことはない。とてもとても素晴らしいと思う。
けれども、その上で紅鬼子が足りないところに手を差し伸べられたら、もっと……。言ったところで止められるだけなので、そっと心にしまうしかないけれど。
「そういえば、今朝の大立ち回り。近くにいたのですよ、何の騒ぎかと聞けば」
「えっ!」
あははと優絃は顎を上げて笑う。
「その場で見たかったですね。『髢の何が悪いのですかっ!』」
(またそういうことを。地獄耳め)
怒ればますます笑われるとわかっていても、眉をひそめずにはいられない。
それが悔しくてぐっと唇を噛んだ。
「宮中でのあなたの大活躍も私の耳まで届くのですから、せめて、宮中を離れた時くらいはおとなしく、ということですよ」
夜盗たるもの目立ってどうするとでも言いたいのだろう。痛いところを突かれて、ついつい頬が膨れ上がる。
「いいですね」
「はい。わかりました……」
冊子を小雀の手に戻して、優絃は「では」と背中を向ける。
いつもそうだ。
彼に声をかけられた時は叱られるか、注意されるか、からかわれるか。
少しも楽しくない。
いつものように変わらぬ飄々とした様子になんだか意地悪がしたくなって、小雀は優絃の長い下襲を踏んでやった。
転べ転べと念じたところで彼はびくともしない。
立ち止まり「こら、悪戯は止めなさい」と軽くいなすだけだ。
「仕返しですよ。鞍馬で踏んだじゃないですか」
「うわっ、執念深い」
「そうですよ。私は執念深いんです。生霊にもなっちゃいますから気をつけてくださいね」
優絃は目を細めて笑う。
「小雀の生霊なら毎夜でも逢いたいな」
そう言いながらぽんぽんと小雀の頭に手を乗せて微笑んだ彼は、渡廊を戻っていく。
(だからそういうことを言わないでくださいよ。誤解されちゃうでしょう?)
溜め息をつきながら、小雀は彼の背中を見送った。
≪ 宿直番 ≫
その日の午後、優弦は校書殿で冊子を広げていた。
ふいに手元が明るくなり顔を上げると、高灯台に明かりを灯した内舎人がにっこりと微笑む。
「遅くまでお疲れさまです」
時を忘れて集中していたらしい。もうそんな時間かと、凝り固まった首を回して冊子を棚に戻した。
外に出ると、楽しそうな笑い声が耳に届く。宿直番が談笑しているようだ。
彼は寄っていくことにした。
「楽しそうですね」と優絃が声をかければ、振り返った中には冬野中納言の顔もあった。
小雀は天敵のように嫌っているが、すらりとしたいい男ぶりなので女性には人気がある。昨日の花の宴での舞も鮮やかで女性たちを虜にしていた。
月に愛された月冴の君、太陽に愛された頭中将、妖魔に愛された冬野中納言と言われる。
妖魔に愛されたとは随分不穏な言葉だが、一時彼は元恋人の生霊に悩まされたことがあった。その時のやつれた様子が女心をくすぐったとか。
『どうせその恋人を騙して財産盗んだに違いないわ! 妖魔はお前だっていうの』
いつだったか小雀がかんかんに怒っていたのを思い出し、優絃は扇の裏に笑いを隠す。
「おや優弦どの。どうぞどうぞ。笹掌侍の髢事件の話をしていたんですよ」
公達の間でもすっかり評判になっているようだ。
「そういえば、そもそもなぜそんなことになったのでしょうね」と誰かが聞けば、苦笑いを浮かべた頭中将が額に手を当てた。
「面目ない。昨日、宴のあとに笹掌侍に恋文を渡しましてね、それが夕凪にばれてしまいまして」
夕凪とは弘徽殿の女房で頭中将の元恋人である。彼のほうはすっかり冷めてしまったが、彼女のほうは未練があるらしい。よくある話だ。
「それで喧嘩になったらしく、もみ合ううちに取れてしまったらしいのです」
「なるほど。頭中将も罪なお人ですなぁ」
あの豊かな髪が髢だったとは興ざめだという男もいたけれど、頭中将は可愛いではないかと笑う。太っ腹の男だ。
「しかし『髢の何が悪いの? 皆さんお世話になるでしょう!』はよかったですね」
「ああ、小雀でしたっけ。最近入った麗景殿の女房ですよね」
そこから小雀の話題になった。
五条の花橘の姫ですよと誰かが言えば、あそこは女所帯のはずが屈強な門番がいたりして誰も恋文の返事をもらったことがないという。
奥ゆかしい姫もいいが、あのように元気な姫も魅力的だと誰かが言った。
「にこにこと愛くるしい姫ですよね」と言った頭中将の言葉に、冬野中納言が「ほぉ」と興味深げに話に分け入って来た。
彼の姉は、弘徽殿の女御が産んだ敦茂親王の乳母である。左大臣家と縁が深い。
後宮にはふたつの派閥がある。左大臣派の弘徽殿と、右大臣派の麗景殿。
左大臣派の彼は、小雀を知らないようだった。
優弦がちらりと彼を見て、口を開く。
「そういえば冬野中納言、夜盗に入られたとか」
「ええ。家を空けていた隙にやられました。検非違使にきつく言ってきたところです。全く彼らが甘いから夜盗もいい気になってるんですよ」
「夜盗は、何を持っていたのですか?」
「砂金とか、他にも作り立ての衣や調度品やら色々ですよ。下人共は暴力を振るわれましてね、邸の中はめちゃくちゃ。忌々しい」
「なんと、それはそれは」
一同が怯えた声を上げる中、事情を知る優絃は密かにため息をつく。
(小雀の耳に入らないといいが)
夜の後宮は密やかにさざめいている。
男子禁制というわけではないので、女房や女官が自室としている局に、恋人や親しい公達が忍んでくるのだ。
麗景殿の女房、薄野の局にも恋人が来た。
恋人は今宵、宿直番だったらしい。世間話ついでに冬野中納言の邸に押し入ったという夜盗の話をしたようだ。
朝を迎えた薄野は、早速女房たちに夜盗の話を披露した。
「砂金の他にも作り立ての衣や調度品やら、大層な量を持っていかれたそうよ」
「まぁ、冬野中納言ったらお気の毒に」
彼は敵対勢力とはいえ、それはそれ。麗景殿の女房たちも同情しきりである。
「紅鬼子とかいう夜盗らしいわ。赤鬼のごとき恐ろしい顔をしているんですって、家の中はめちゃくちゃで、けが人もいるそうよ、恐ろしい」
それを聞いた小雀が、心密かに怒りの炎を燃やしていたのは言うまでもない。
(持ち出したのは砂金と唐三彩だけじゃないの! 誰にも暴力は振るっていないわ! 邸はどこもあらしていない!)
ぷるぷると震える手を袖の中に隠し、許すまじ冬野中納言と心に誓っていた。
≪ 弘徽殿 ≫
いつものようにお使いを頼まれて、小雀は貞観殿にいた。
「頭中将に頂いたの」
笹掌侍が差し出した竹籠の中に粉熟が入っている。胡麻の風味ととろけるような甘味を思い浮かべ、思わずごくりと喉が鳴る。
「一緒に頂きましょう」と、笹掌侍の局に行った。
髢事件以来、ふたりは気の置けない友人である。
事件直後こそ元気がなかった笹掌侍だけれど、小雀が感心するほど早い立ち直りを見せた。お互いさっぱりとした性格なので気が合うのだろう。
「頭中将、相変わらず熱心なのね」
小雀がくすっと笑うと、笹掌侍は照れたように扇で口元を隠す。
「頭中将は、髢だってわかっても気にしないって。そんなの信じられる?」
「私は信じるわ。頭中将は男らしくて素敵な人だもの」
親友の太鼓判に笹掌侍はうれしそうに微笑んだ。
「小雀は? 好きな人はいないの?」
「うん。いないわ」
「まあ。誰とも恋文を交わしたことはないの?」
いくら親友とはいえ、だって私は夜盗だからとは言えない。
「そうなの。いつかは恋をしたいと思っているんだけどね」
恋話に花を咲かせるうち、笹掌侍は「そういえば」と声をひそめた。
「ねえ小雀、冬野中納言ってどう思う?」
思わず顔をしかめそうになった。
「どうって?」