蛍月夜恋夢譚
≪ 宮中 ≫
ここは平安の京。
桜の季節が訪れた宮中で、花の宴が盛大に催された。
美しい公達の舞に感動の余韻は残り、あくる日も興奮が残っていたのだろう。後宮の一角でちょっとした事件が起きた。
ぐるりと周りを囲まれて、ひとりの女官が付け毛である髢を手に、うずくまっている。その手は震えていた。
「そんなことまでして男の関心を惹こうとするなんて」
「いやだわ、みっともない」
扇で口元を隠しながら嘲笑うのは弘徽殿の女房たち。
と、そこに彼女たちを押しのけるようにしてひとりの女房が立ち塞がった。
「髢の何が悪いの? 皆さんだってお世話になるでしょう?」
彼女は麗景殿の女房、小雀。
十七歳の割には幼さが残る可愛らしい姫であるのに、少しも怯まない。
胸を張り、囲む女たちをひとりずつ睨みながら「あなたも、あなたも、いつか使うんでしょう? 白い髪が出てきたら被るんじゃないのですか!」と追い払った。
「ありがとう、小雀」
「いいえ。あんな人たち気にすることないですよ」
明るい笑顔で小雀は女官に手を差し伸べた。
今からひと月ほど前、小雀は麗景殿の女御、晃子さまにお仕えする女房として宮中に来た。
後宮では毎日のように事件が起きる。
恋人を取られた、衣を破かれた。大事な冊子を汚されたなど理由はさまざま枚挙にいとまがない。
最初のうちは何事かと覗き込んでいた小雀も、ひと月ほど経った今では見慣れた光景に、元気でなによりとやり過ごしている。
でも、さっきのやりようは酷かった。寄ってたかって取り囲み、争いではなく、ただの虐めだ。
麗景殿に戻っても怒りは収まらない。
どうしたのと聞かれて騒動のあらましを報告すると、先輩女房らの顔も見るみる赤くなっていった。
「んまあ、小雀が怒るのも当然よ!」
「信じられない! 弘徽殿の女房は本当に意地が悪いわ」
騒動のほとんどは弘徽殿の女房が原因なのである。彼女たちが憤るのも当然だった。
今回の被害者は、女官で最も美しいと言われている内侍司の笹掌侍。
なにがあったのか、髢が落ちてしまったらしい。
彼女はもともと髪が薄かった。自慢の黒髪は髢で増量していたと知って、弘徽殿の女房らがここぞとばかりに囃し立てたのだ。
「私、届け物ついでに笹掌侍の様子を見てきますね」
「かわいそうに。小雀、これを笹掌侍に持っていってあげて、気が紛れると思うから」
「私も、これを」
力いっぱい「はい!」と答えた小雀は色鮮やかな十二単の袖を翻し、早速、託された冊子を抱えて麗景殿を出た。
意気揚々と簀子を進むと、行く手の角から公達が現れた。
はっと目を引く鮮やかな登場に小雀はため息をつく。
昨日、花の宴でひと際美しい舞を披露し、宮中の女性の心を鷲掴みにした彼の名は源 優弦。
人々は彼を月冴の君と呼ぶ。
春の日差しをきらきらと浴びながら、蘇芳色の下襲を垂らす鮮やかな束帯姿。すらりと背も高く、その存在感たるや神々しいばかり。
京きっての美貌の公達の登場に、半蔀の内側にいる女官たちがきゃっきゃと声をあげ騒がしい。
(まあ確かにきれいな人よね)
抱えている冊子にも美しい公達が登場し、先輩女房が『月冴の君のようね』とうっとりしていた。そう思ったのはひとりやふたりではないだろう。もしかすると皆が真っ先に彼を思い浮かべたかもしれないと、小雀は思う。
と、そこに――。
「きゃあ」
女官がふたり、ばたばたと御簾から転げ出た。
小雀はぎょっとして立ち止まった。
優弦の方がもっと驚いたに違いない。何しろ突然、足元に人が現れたのだ。
後ろから押されたのか、それとも身の乗り出し過ぎたのか。いずれにしろ相当恥ずかしいのだろう。ふたりともその場にうずくまっている。
(あーあ、しょうがないわね)
呆れながら助けに行こうとすると、優絃がふたりに手を差し伸べた。
「御簾も、あなた方の美しさを隠しきれなかったのですね」
ひぇー、と小雀は絶句する。
さすが月冴の君としか言いようがない。
そういう気の利いた振る舞いが、一層彼を人気者にしているのだ。
静まり返っていた屋内から悲鳴にも似た声が上がる。バタッと倒れる音がしたので、興奮のあまり気絶した女官もいるのかもしれなかった。
優絃に促され女官の十二単が御簾の内側に消えていくのを見計らって、小雀は歩みを進めた。
彼に捕まると面倒だ。この隙にとばかりにひたひたと足を速めたけれど。
「小雀」と呼び止められた。
「ちょうどよかった。用事があったのですよ」
「申し訳ございません。私、貞観殿に届け物がありますので」
それだけ言って行ってしまおうとしたのに、彼は、「ではお付き合いしましょう」と言う。
――え?
扇をずらしてキリキリと睨んでみても、彼はどこ吹く風の知らぬ顔。
後ろにいたお供に先に行くよう告げた彼は、小雀を振り返り、「持ちましょう」と、小雀の手から冊子を取りあげる。
「大丈夫ですのに」
「まあまあ遠慮せず。そのか細い腕では重たいでしょうから」
小雀は目を細めた。
御簾の内側では、女官らが今のやりとりを固唾を飲んで見守っているに違いない。
麗しの君の優しさにうっとりする反面、『また小雀は優しくしてもらっているわ』と、もやもやしているだろう。
ずるいわと、後で嫌味を言われるのは目に見えている。いい迷惑よと溜め息をつきながら、心の中で悪態をつく。
(月冴の君なんて言われているけれど、この人ったら、実はとっても怪しい人なんですよー)
途中、優絃はすれ違う人ごとに挨拶を交わす。
「やあやあこんにちは。先日は楽しいひと時をありがとうございました」
「こちらこそ、美味しい唐菓子をありがとうございました。また是非いらしてくださいませね」
春風のように爽やかな笑顔を向けられて、日頃つんけんしている弘徽殿の女房も、甘える猫のようになる。
その様子を尻目に、小雀は彼と初めて会った日を思い浮かべた。
あれはひと月ほど前。
お供を連れて鞍馬山に参詣し、宿坊に泊まった時だった。
月夜の庭景色を見ようとして、皆が寝静まった頃に簀子へと出た。
目の前に池があり、池の向こう側では梅の木が紅い花を付け、微かな風で水面の月が揺れるさまはとても美しく、思わず「きれい」と呟いた時だった。
「大丈夫だったのですね」
はっとして振り返ると背の高い男が立っていた。
扇を翳しているので顔は見えない。
「雪の日、頭を打ったように見えたので、心配していたんですよ」
――えっ?
驚きのあまり小雀は扇を落としそうになった。
何しろ雪の日に頭を打ったのは一度しかない。それも夜、闇に紛れてとある貴族の家に〝盗み〟に入った帰り道だ。
男はそれを知っている。
いったい何者なのか。
青白く月明かりに映える白地の狩衣、八藤丸文の指貫は色が濃い。身なりからして若い上流貴族に違いない。
敵か味方か。ぞわりと緊張が走った。